【フィジーでBulaBula協力隊(13)】 “お気楽国民性”は近代化で消えるのか? 今を楽しく生きるのも悪くない

村に暮らすフィジー人の子どもたち(左:女の子、右:男の子)。カメラを向けると、即座にポーズをとってくれ愛嬌たっぷりだ村に暮らすフィジー人の子どもたち(左:女の子、右:男の子)。カメラを向けると、即座にポーズをとってくれ愛嬌たっぷりだ

約束は破るし、時間や規則にルーズ、他人のモノは私物化する――。青年海外協力隊員としてフィジーで活動し始めて1年半、任期(2年) の後半を迎えると、この国のマイナス面も目につくようになった。浮かない顔をする私に、「暗い顔なんてしないで、もっとハッピーに毎日を過ごしなさいよ」 と満面の笑みを振りまくフィジー人(フィジー系フィジー人)たち。今回は、フィジー人の“お気楽国民性”について考えてみたい。

■できなくても「イエス!」

私の勤務先であるシンガトカ町役場の同僚が暮らす村で、廃油せっけん作りを企画したときのことだ。「環境教育のワークショップをするから段取りをよろしく」と意気込む私に「任せといて!」と威勢良く答えた同僚のフィジー人。フィジー人の“ゆるさ”を知る私は2週間ほど前からリマインドを繰り返してきた。

万全の準備をして迎えた当日の朝。会場入りして驚いたのは、まさかのドタキャンだった。参加者らしき人たちはちらほらいる。だがイベントで使う道具は見当たらないし、テントもセットされていない。

私は怒りを抑え、同僚の家に向かった。すると、楽しげな笑い声が外まで聞こえる。玄関に立っていた私に気づいた同僚は私を家の中に招き、訪問客に紹介し始め た。「参加者はもう集まっているよ」と私が伝えると、「離島から親せきが来ているの。ワークショップはこれからするから安心しなさい」。平然と言い切る同 僚に私は呆れて言葉も出なかった。

ワークショップは予定時間より大幅に遅れたが、なんとか開催できた。ただもし私がプッシュしなかったら、と想像すると恐ろしい。直前にならないと準備しないし、できる見込みがなくても簡単に「イエス」と返事するフィジー人‥‥。

フィジーではお願いを面と向かって断るのが失礼に当たることは、私も承知している。でもやっぱりこの習慣には慣れない。ひょっとして私は仕事のパートナーとしてフィジー人に多くを望み過ぎなのだろうか。

■フィジー・タイムは美徳か欠点か

正直に告白する。私はフィジーに赴任して間もないころ、楽天的なフィジー人を少し軽く見ていた。「どうせ何も考えていないのだろう」「ストレスフリーで気楽だよな」。こんなふうに思っていた。

で も腰を据えてフィジー人と付き合うと教えられることも多い。「明日のことを思い悩まず、今を精いっぱい楽しく生きる」。「見返りを求めず他人を助ける」。 特にフィジー人の信仰(多くはキリスト教メソジスト派)に基づく価値観には目を見張る。「フィジー・タイム」と称される楽天的な気質は、キリスト教の宗教 観と土着の民族性が合わさってできたのだろう。

だがそのフィジー・タイムが時に周りに迷惑をかけることも事実だ。シンガトカ町役場保健建築課には、市民がしょっちゅう仕事の催促に来る。悲しいかな、担 当のフィジー人は仕事の優先順位をつけるのが大の苦手だ。手当たり次第に取りかかっては、片付かないうちに他の仕事に移ることを繰り返す。これでは仕事が 滞るのも当然だなと思う。

隣のデスクで作業をしながら、私はついつい、段取りや時間厳守などの必要性を指摘してしまう。環境教育をしに来たのか、マナー講座をしに来たのか時々わからなくなる。

日曜日の教会でのお祈りの後は、みんなで揃ってランチがお決まりのパターンだ。ちなみにご飯を食べる順番は子ども、年長者、女性、男性。フィジー人はお祈り、家族や友だちと過ごす時間を最も大切にする

日曜日の教会でのお祈りの後は、みんなで揃ってランチがお決まりのパターンだ。ちなみにご飯を食べる順番は子ども、年長者、女性、男性。フィジー人はお祈り、家族や友だちと過ごす時間を最も大切にする

■近代化についていけない?

フィ ジー・タイムは、フィジー人が好むかどうかにかかわらず、変わらざるをえないのかもしれない。フィジーではここ数年、経済発展に伴う近代化が急速に進む。 何百年と続いてきた村を中心とする半自給自足的な生活から、出稼ぎに行って生計を立てるという近代的な生活パターンに変化してきた。

しかしフィジー人の場合「より良い生活を求めてがむしゃらに働く」のとは違う。2011年にフィジーが世界幸福度ランキング1位に輝いたことからもわかるように、大多数のフィジー人の姿勢は「今のままで十分ハッピー」というものだ。

経済発展のけん引役は、フィジー人口の約4割を占め、ビジネスに秀でるインド系住民に加え、オーストラリアやニュージーランドなど海外からの援助・投資だ。その結果、国内でも競争が生まれ、都市部と地方部、またフィジー人とインド系住民の間の格差が広がりつつある。

この国で生活していると実際、物質的にも社会的にもフィジーは今まさに途上国から中進国への道を突き進んでいる、と感じる。スマートフォンを持ち、スカイプでの会話に夢中な同僚を見るたび、ボランティア(援助)は本当に必要なのかと自問自答することもある。

国全体が発展を遂げ、近代的になるのは喜ばしいこと。ただフィジー人だけが経済発展に取り残され、それが原因で他の民族と対立が深まったりしないか心配 だ。フィジーの起業家のほとんどはインド系か中国系、またはヨーロッパ人。フィジー経済への貢献度は劣るのに、先住民であるフィジー人だけが土地所有をは じめ様々な優遇を政府から受ける。このため他民族と摩擦を生みやすい土壌がある。

フィジー政府も大っぴらには言わないが、フィジー系に対する優遇策を設けないと国が他民族に実質支配されてしまうという危機感をもっている、と私は想像す る。個人主義を嫌い、家族や友人と何でもシェアすることを尊び、損得勘定などまるでおかまいなし。こうしたフィジー人の気質は近代化(ここでは資本主義化 の意)と相性が良いわけがない。

と いいつつ、個人的には約束を何度すっぽかされようが、穏やかで憎めないフィジー人の国民性は変わってほしくない。起業家として大成しなくても、「気取らな い愚直さ」こそフィジー人の何よりのとりえに他ならないからだ。ボランティアの独りよがりとわかっているが、こう願わずにはいられない。