フィリピン青年海外協力隊が台風被害のレイテで子どもたちを励ますイベント、「お金や物ではなく、笑顔届けよう」

協力隊員(中央)と一緒に輪になって踊る子どもたち(2015年8月22日)協力隊員(中央)と一緒に輪になって踊る子どもたち(2015年8月22日)

2013年11月、フィリピンを襲った台風ハイエン(フィリピン名:ヨランダ)を覚えているだろうか。フィリピン国内で6200人以上の死者を出した大型台風。ヨランダの被害がもっとも大きかったのが、フィリピン東部のレイテ島だ。このレイテ島で、青年海外協力隊の有志グループが、被災した子どもたちを励まそうと、歌やダンスなどを楽しむイベントを続けている。協力隊員である筆者も、8月に行われたイベントに参加。校舎を寄付したり、物資を届けたりとは違う、「笑顔を届ける復興」に尽力する協力隊員の姿に密着した。

■踊りで心を解きほぐし

「ハーイ、ドゥーユーワナダンス(踊りたい)?」

レイテ州の州都タクロバン郊外のタナウアン町の小学校。いきなり訪れた外国人をいぶかしげに見ていた子どもたちの輪に、有志グループの一人、座間真智さんが踊りながら分け入る。流れる曲は、フィリピンでも人気の韓国人歌手のダンスナンバー。すると、一人、また一人と一緒になって踊りだす。5分もすれば、完全に「ダンスホール」と化してしまう。

畳み掛けるように、グループリーダーの藤井蘭さんが、英語で「キラキラ星」を歌い、簡単な振り付けを教える。あとは、一緒になって踊る。次は速く、もっと速く、今度はセクシーに…。

この後は、一緒に炭坑節を踊ったり、風船回しゲームをしたり。盛り上がったのは、メンバーによる寸劇。漁村に住む8歳の女の子が主人公の話で、自分が捨てたお菓子のプラスチック袋のせいで、ペットのヤギや魚が死んでしまうという、ごみ捨ての危険性を訴える劇だ。ほかにも歯の磨き方や手洗いの指導もする。約2時間、協力隊も子どもたちも、汗だくになって一緒になって踊り、歌い、笑う。

これが、有志グループ「サマカナ」が十八番とする、子どもたちの心のつかみ方だ。

サマカナは、フィリピン語で「一緒にやらない?」を意味する「ササマカナ?」からつけた名前。もともと、地元の子どもたちに日本の遊びをするなどの活動をしていた。

しかし、ヨランダが上陸し、多くの子どもたちが被災。メンバーたちは「子どもたちを励ましたい」と復興活動を展開。国際協力機構(JICA)の支援も受け、上陸1カ月後から14年11月までの1年間、レイテ島を訪れ続けた。今回、当初から携わっていたメンバーが9月末で帰国するため、約9カ月ぶりに開催。8月22、23日の2日間で、タナウアン町の小学校3校を回った。

筆者(右)も日本から持参した浴衣で、炭坑節を教えた(2015年8月22日)

筆者(右)も日本から持参した浴衣で、炭坑節を教えた(2015年8月22日)

■食事さえない中でのスタート

「あぁ、校舎がきれいになっている!」。当初から通っていたサマカナメンバーの一人、青野友香さんが学校に着くなり、声を張り上げた。

今回巡った3校が3校とも、高波や強風で校舎が倒れるなどした小学校だったのだ。今はアメリカや韓国などの援助団体やフィリピンの大手財閥の資本が入り、どこもきれいになっていた。タクロバン市内も、しゃれたカフェやホテルが立ち並び、夜遅くまで店の電気は明々と道を照らす。大きな台風が襲った都市とは思えないほどの立ち直りを見せていた。

しかし、死者6201人、負傷者2万8626人、行方不明者1785人、被災者数1600万人以上(フィリピン国家災害リスク削減管理委員会発表)を出した大型台風。被災直後は、直視できないほどの光景が広がっていたという。

「本当に、電灯がついた家や店が、ほとんど見当たらなかった。薄暗く、もっと恐いイメージがした町だった」。当初から参加していた座間さんは、サマカナメンバーの一人としてタクロバンに降り立った最初の晩を振り返る。滑走路の整備が進まず、何度も飛行機は着陸を試みざるをえなかった。

道の真ん中を、倒れたココナツの木がふさぐ。家が崩れたがれきはそのまま。下水処理が進まず、ハエ取り紙には、200~300匹がびっしりとうごめいていた。食事もままならず、緊急援助隊が残していった缶詰めをもらってしのいだ。当時のレイテ隊員の中には、天井近くまで水が押し寄せて、顔だけ水面に出して避難したり、1週間近くJICAフィリピン事務所と連絡が取れなかったりした人もいたという。

座間さんいわく、何よりも印象的だったのが「子どもたちの表情」。被災直後の子どもたちの4割ほどは、会場に集まって来てはいるが、目はうつろ。楽しく遊んでいる子どもたちを遠巻きに見つめ、決して輪に加わろうとはしなかった。身内を亡くしたのか、それとも家が流されてしまったのか。そんな悲しみが、彼や彼女から笑顔も奪ってしまったのだろう。

一斉に風船を飛ばす子どもたち(2015年8月22日)

一斉に風船を飛ばす子どもたち(2015年8月22日)

■心の底から笑えるその日まで

ヨランダ上陸からまもなく2年。被災直後から携わるメンバーによると、子どもたちの表情はかなり明るくなってきたという。通い続けるうちに、メンバーの顔を覚え、「アテ(フィリピン語でお姉ちゃん)」と声を掛ける子どももいる。

今回の3校は、すべて元レイテ隊員のホストファミリーが、学校側に交渉して手配してくれた。子どもたちを押しのけ、付き添いで来ていた母親たちが前に出て踊った学校もあった。協力隊員が乗ったジプニー(ジープ型のバス)を追って、走って着いてきた学校もあった。

ゆっくりフィリピン人に感想を聞く時間はなかったが、3校とも好意的に協力隊員を受け入れてくれた。リーダーの藤井さんは言う。「物やお金をあげる支援者、被支援者を超えた関係性を、子どもたちに意識してもらえて良かった」

ただ、決して今回で活動が終わったわけではない。笑顔の子が増えたといっても、私にはそれでも、私たちの活動を遠巻きに見つめ、どんなに誘っても輪に加わろうとしない子どもたちの姿が気になった。

日本人の多くが、フィリピン人の好きなところに「明るくて、陽気なところ」を挙げる。確かに、今回も曲が掛かればすぐに踊りだすフィリピン人に、「さすがの国民性だなぁ」と思いながら見ていた。しかし、フィリピン人は同時に、日本人と同様、「本音と建前」を使い分ける文化もある。本当に、楽しんで笑ってくれていたのだろうか。イベントが終わったらまた表情が曇ってはいないだろうか。協力隊の2年間は限られた時間ではある。でも、その中で少しでもレイテに足を運び続けたい。一日も早く、すべての子どもたちが腹の底から笑えるその日を願って。