13歳で故郷を離れコロンビア国軍に入隊した50歳の男性、母とはその後一生会えなかった

ジョン・エドガーさんは現在、コロンビア内戦で民間人を殺した元兵士らが協力して立ち上げた団体「ファンデーション・エキポ・レスタウラドール」の一員として、かつての激戦地だったメデジンのコムナ13(13地区)などで道路を修復するといった勤労奉仕活動をしている。垂れ幕の下に書いてある「SANANDO HERIDAS」とはスペイン語で傷を癒すの意

合計19年、2度の兵役を経験したコロンビア人のジョン・エドガーさん(50歳)が最後に母と会ったのは故郷を離れた13歳のときだ。コロンビア内戦の激戦地で生まれたエドガーさんは左派ゲリラから逃れる形でメデジンへ行き、その後、国軍に入隊。エドガー少年を送り出した母の別れ際の言葉は「お前がいつか国軍に入り、兵役を終えたら待っているよ」だった。

「兵士になれ」「行くな」

エドガーさんが12歳だったある日、左派ゲリラ「コロンビア革命軍」(FARC)の兵士が、当時住んでいたアンティオキア県ウラミタ村にやって来た。国内第2の都市メデジンから約140キロメートル離れたところだ。

 「兵士になれ」とFARCから勧誘されたエドガーさんを見て、家族は「行くな」と反対。エドガーさんは当時13歳だったが、メデジンへひとりで逃げた。「家族と離れ離れになるので心細かった。だけどFARCの兵士にならなくて済む嬉しさもあった」と言う。

メデジンではおじがビール工場を建設する作業員として働いていた。エドガーさんもその仕事をした。

20歳の時(1995年)、徴兵されて国軍兵になった。武器の使い方や国軍の規律を学んだ。1年半で任務を終了。「早く帰ってママに会いたい」と故郷に帰ることを待ち望んでいた。

しかし退役後も故郷に帰り母親と会うことはかなわなかった。故郷のウラミタでは戦闘が激しく危険だったからだ。

1996年、母が病気で亡くなったとの知らせを受け、エドガーさんは故郷に帰り、母の遺体と対面した。

エドガーさんは言う。

「少年だった僕がウラミタを発ったとき、母は『お前がいつか国軍に入り、兵役を終えたら待っているよ。お前がいなくてとても寂しい』という言葉をかけてくれた。いまでも覚えている」

エドガーさんは国軍兵のとき、母親に何度も手紙を送った。「ママが恋しい」「自分は元気だよ」「早くママに会いたい」とつづって。だがウラミタは僻地。手紙は届かなかった。

どこかの武装勢力に入るしかない

母が亡くなったことでエドガーさんには故郷に帰る理由がなくなった。兵役が終わった後の3年間はメデジンで警備の仕事をした。

ちなみにウラミタは、国軍以外の武装勢力が支配していたこともあって、7歳以上の男子はFARCを筆頭とする左派ゲリラに入ることを強要されていた。それを拒んで故郷にとどまるのは不可能だ。そのため小学生の同級生の大半はウラミタを出て、コロンビア国軍の兵士となった。これは「名誉あること」とエドガーさんは語る。

小学校の友人のひとりはFARCの兵士になった。エドガーさんの母が亡くなって故郷に戻ったエドガーさんは、その友人の家族と一緒に食事した。帰り際、友人の親がエドガーさんのおじに「あいつ(エドガーさん)はもう敵だ。次にあったら殺す」と言い放ったという。

その友人とはそれきり連絡をとっていない、とエドガーさん。同じ学校に通い、机を並べていた友人との友情が内戦で簡単に崩れていく。この現実に強いショックを受けた。

ジャングルで料理と出合う

FARCの勢力が拡大してきたことも影響してエドガーさんは25歳の時(1999年)、再び国軍に戻った。2度目の兵役だ。

入隊してすぐ、メデジンの国軍病院で1年間、看護を学んだ。その後、ジャングルで8カ月に及ぶ実地訓練をする。40人ずつ4つのチームに分かれ、総勢160人がジャングルで生活し、FARCとの戦いに備えて武器を整備したり、敵と遭遇した際の戦い方や逃げ方を学んだ。

夜寝る時も安心できない。4~6人ずつ2時間交代で見張りをする。料理も順番でする。これまで料理をしたことなかったエドガーさんだが、厳しいジャングル生活の中で料理の楽しさを覚えたという。

1 2