2025-11-29

【早割12/27】日系移民の現在地と歴史を取材しよう!『Global Media Camp in ブラジル』参加者募集

 

世界屈指の移民大国といえば南米のブラジル。先住民、白人(ポルトガル人、スペイン人、イタリア人、ドイツ人、ユダヤ人など)、黒人、シリアやレバノンなどの中東系。日系を含むアジア系‥‥。ブラジルには世界60カ国から移民が入っているといわれます。

日系人が世界で最も多く暮らす国、それがブラジルです。いまやその数、およそ270万人。米国の日系人の1.7倍です。

ブラジルへ移民を運んだ最初の船は「笠戸丸」。いまから120年近く前の1908年(明治41年)の4月に神戸港を出発し、アフリカ南端の喜望峰を回り、およそ50日後の6月18日にブラジル南東部のサンパウロ州にあるサントス港に着きました。乗ったのは781人。

人生最大の冒険をして新天地にたどり着き、「バラ色の未来」が待ち受けているのかと思いきや、現実はその真逆でした。日系移民は壮絶な苦労を味わったのです。

後進国ブラジルの農村(主にコーヒー農場)でピストルと鞭に追われ働かされた奴隷的な扱い、安い賃金、風土病で倒れた者、難産で死んだ妻、コーヒー農場で強姦された娘、貧しさゆえに栄養が足りずに死んだ嬰児や幼児‥‥。

ブラジルではかつて、日系を含む東洋からの移民は「ブラジル社会に馴染まないし、奇妙な生活習慣をもつ危険な人種」と揶揄されていました。黒人と黄色人種(東洋系)の受け入れを禁止する法案が1933年には国会に出されたこともあります。

日本軍が1941年に真珠湾を攻撃してからは「敵性国または敗戦国の人間」として猛烈な差別にさらされました。日本人の顔をしていることを悲しみ、日本語を話すことを恥ずかしがり、それを隠す風潮まで日系移民の間で広がったようです。

日系移民からすれば、勝手に戦争を始め、勝手に敗北した日本。その巻き添えを食ったとの思いが強いのかもしれません。当初描いていた5年か10年か働いてお金を貯め、故郷に錦を飾ろうという夢は完全に打ち砕かれ、日本への帰国を諦め、ブラジル永住の道を選択せざるを得なかったわけです。

二世、三世などと世代が進んだこともあり、ブラジルへの同化の道を歩み始めた日系移民たち。いまや、大臣、連邦議員、州議員、市会議員、市長などを輩出するなど、確固たる地位を築きあげました。

2008年の日系移民100周年でもブラジル国内で記念式典が開かれ、ルラ大統領も出席。凄惨な過去を乗り越え、まさに1世紀をかけて、日系移民はブラジル社会への貢献を評価されるまでになったのです。

日本に捨てられ、黒人奴隷の代わりの労働力に

周知のとおり、日本を含む先進国では近年、「排外主義」が急速に台頭しています。ですが決して忘れてはいけません。日本も、明治の終わりから昭和の初期にかけて多くの移民を出してきたことを。日系移民が異国の地で戦ってきたことを。

しかもブラジルなどへの移民は日本の国策でもありました。当時の日本は世界恐慌と凶作のダブルパンチで悲惨な状況でした。要は「口減らし」のために、「棄民」(飢民が転じたもの)としてサントス港へ捨てられたわけです。

日本政府や移民会社、移民周旋人の甘言に乗せられて、地球の向こう側まで出稼ぎにやってきたはいいが、米国のハワイより5倍遠く、賃金は5分の1という理不尽な現実。

またブラジル政府にとっては、1888年の奴隷制廃止(世界で最も遅かった)を受け、黒人奴隷の代わりに、日本人をコーヒー農場の労働力として導入するのは好都合だったとの事情がありました。いわば準奴隷的存在。

日系に限らず、移民はさまざま思惑、外的要因に振り回されます。かといって現代と違って、この時代の移民は日本に帰りたくても、そう簡単には帰れないのは言うまでもありません。

一世が排日や異文化、戦争を耐え忍び、二世・三世がブラジル式の教育を受け、「日本は祖国、ブラジルは母国」というメンタリティのもとにブラジル社会へ急速に同化していった日系移民たち。ここで彼らの苦難もひと段落、と思ったら、そうはなりませんでした。日本へ「逆出稼ぎ」する現象が起きたのです。

彼らはなぜ、日本に舞い戻ってきたのか。

その理由はブラジル経済にあります。1980年代のブラジルは2000%超のハイパーインフレに見舞われ、経済がどん底だった時期。1990年に就任したコロール大統領は一般市民の銀行預金まで凍結しました。口座からの引き出しに制限がかかったのです。

対照的に日本はこのころ、バブル景気の真っただ中。深刻な人手不足も手伝って、日本政府は1990年に出入国管理法を改正。日本人の血を引いていれば在留許可を与えると特別扱いをしました。この流れに乗って、ブラジルをはじめ南米に移民した日系人が今度は日本へ向かいます。群馬県大泉町や愛知県小牧市などにある部品工場でいまも働いています。

ブラジルへ渡った一世が苦労して生活の基盤を築いたのに、「日本在住の日系ブラジル人」になってしまったその子ども・孫たち(二世、三世)も。その数およそ21万5000人。

「移民史」を無視して世界は語れるのか

言わずもがな、移民は、世界史を語るうえで無視できません。古代人類の大移動、大航海時代、アフリカからの黒人奴隷、中国やインドからのクーリー(苦力)移民、欧州や日本からの近代移民、そして現在。

移民問題をいまこそ立ち止まって考えてみませんか。移民とは何か、差別とは何か、同化とは何か、アイデンティティとは何か。移民はなにも一部の国の人の話ではないのです。どの国にも栄枯盛衰があり、移民を出したり、また受け入れたり、この繰り返しです。日本しかり、欧州しかり、ブラジルしかり。

ブラジルの日系移民から見る「移民の現在地と歴史」。といっても、「移民」とひとくくりするのではなく、ブラジル・サンパウロで暮らし続ける日系人それぞれの物語を直接取材するのです。脱・ステレオタイプの見方。

市民ジャーナリストになって取材し、記事を書き、発信する、このプログラムの名称は『Global Media Camp』。2026年3月には満を持してブラジルでも初めて開催します。日本人として海外とかかわっていくうえで原点ともいえる、われわれの先人・日系移民にフォーカスするのが特徴です。

『Global Media Camp』を主催するのは、2012年から途上国を追ってきた専門メディアのganas。Global Media Campは2014年の春以来、アジア、ラテンアメリカ、アフリカの9カ国13カ所で計45回開いてきました。2026年2~3月の開催地はブラジル・サンパウロのほか、タイ・チェンマイ、西アフリカのセネガル・ダカールがあります。

*ブラジルに渡った日系移民の歴史と特徴についてはこの告知文の下のほうに書きました。どこよりもシンプルにまとめたので、ぜひお読みください。われわれの先人が異国の地でどんな目に遭ったのか、どう乗り越えてきたのかがおわかりいただけます。

『Global Media Camp in ブラジル』の概要

◎場所:ブラジル・サンパウロ
◎期間:2026年2月28日(土)~3月9日(月)
*2月28日に現地集合(当日着の希望者に限って、サンパウロの国際空港でお迎え)、3月9日に現地解散、9泊10日の現地研修プログラム
◎費用:一般25万4800円、学生23万4800円
*渡航費(LCCを使えば、11月27日時点で往復17万円台から。航空券は早めに買う方がお得です)、保険代(3700円台から)は含みません。日本国籍保有者はビザ、イエローカード(黄熱ワクチンの予防接種国際証明書)ともに不要です。
*含まれるもの:講習費、宿泊費、宿泊先と取材先の移動費、通訳の費用(基本は日本語で取材できます。通訳が必要な場合は日本語を話す通訳を付けます)、その他取材費用、食事代(朝、昼、夕。飲み物やデザートなどは除く)
ganasサポーターズクラブのパートナーは3万円、サポーターは2万円の特別割引があります(早割との併用のみ可。このプログラムへのお申し込みと同時にganasサポーターズクラブに入会されても割引を受けられます。大変お得です)
*12月27日(土)までのお申し込みは「早割」として1万円割引(入金が完了していること)
*ご友人同士で申し込むと「友だち割」として、それぞれに5000円キャッシュバック(早割との併用のみ可)
*「学生」料金が適用されるのは、プログラム開始日の時点で大学・大学院・専門学校に在籍されている方。学生証の提示を求めることがあります
*特典として、2026年春に開講予定の「グローバルライター講座」(5万5000円相当)または「77日記者研修」(6万9000円相当)を特別に1万円で受講できます(ただしganasサポーターズクラブに入っている/入ることが条件)
◎締切:2026年1月28日(水)
*12月27日(土)までのお申し込みは「早割」として1万円割引(入金が完了していること)
◎定員:最大8人程度(先着順)、最少開催人数4人程度
◎事前研修:2026年2月後半または2月上旬を予定(1回で8時間程度)
*参加者の都合を優先し、日時を決めます。ご相談ください
*場所は都内を予定
◎報告会:2026年5~7月を予定(希望者のみ。記事を発信するだけでなく、プレゼンというアウトプットをする格好の機会になります)
◎主催:特定非営利活動法人開発メディア(ganasの運営団体)
◎問い合わせ先:devmedia.ganas@gmail.com
◎詳しい説明資料:(少々お待ちください)
◎『Global Media Camp』参加規約:こちら
◎申し込み方法:お問い合わせいただければ申込書をお送りいたします。下のURLをクリックしてもダウンロードできます(文字化けなどがする場合はメールでご連絡ください)。ご家族とご相談のうえ、記入した申込書をメールでお送りください。
https://docs.google.com/document/d/1kN1wx7eJz8CEuzs_-BFBtFNhYsmeTvDB/edit?usp=sharing&ouid=117805614848569471035&rtpof=true&sd=true 

『Global Media Camp in ブラジル』の基本的なスケジュール(予定)と取材先候補

2/28(土)サンパウロ着
3/1(日) 取材
3/2(月) 記事の執筆&フィードバック(夜行バスで日系移住地へ移動)
3/3(火) 取材
3/4(水) 記事の執筆&フィードバック
3/5(木) 取材(夜行バスでサンパウロへ移動)
3/6(金) 記事の執筆&フィードバック
3/7(土) 取材
3/8(日) 記事の執筆&フィードバック、フェアウェルパーティー
3/9(月) ふりかえり、現地解散

下のような取材先を候補として考えています(ご要望があればお気軽にお問い合わせください)。
↓↓↓
一世(戦後移民。移住して半世紀)、二世、三世(日本への出稼ぎ経験がある若者)、日本生まれでブラジル育ちの若者など。各県人会が開く祭りに参加できる可能性も。

途上国を取材し、記事を書き、それを発信する『Global Media Camp』は唯一無二のプログラムとして大きな支持を得てきました。2014年の春以来これまでに45回(9カ国13カ所)開いてきた実績があります。2026年春(2、3月)の開催地はブラジル・サンパウロのほか、タイ・チェンマイと西アフリカのセネガル・ダカールを予定しています。

『Global Media Camp』に参加すると得する3つの理由

1)途上国を取材できる!

‥‥『Global Media Camp』は、途上国を本格的に取材でき、記事を書き、それを発信する唯一無二のプログラムです。スタディツアーのように、担当者からレクチャーをひたすら受けるのではありません。参加者自らが取材対象に自由に質問していきます(基本は英語。ブラジルのみ日本語で)。取材は、その国のことを短期間で少しでも深く、また多角的に知る手段のひとつ!

2)スキルアップできる!

‥‥『Global Media Camp』では新しい体験をするだけではありません。ネタ(良い話も悪い話も)や視点(切り口)を見つける力、情報を引き出すために質問する力、物事を掘り下げる力、要点をまとめる力、伝わる文章を書く力など“一生モノのコミュニケーションスキル”の向上を目指します。各回の参加者を最大8人に絞っているため、ganas編集長からマンツーマンでフィードバックを受けられます。頑張った証として、現地取材をベースにした「署名記事」が残ります。記事には1万以上の「いいね!」が付いたことも。ステレオタイプでない記事の発信にも大きな意義があります。

3)「複眼の視点」でとらえられる!

‥‥「途上国=貧困 or 幸せ」などと決めつけていいのでしょうか? 物事に対する見方はさまざま。『Global Media Camp』では複眼の視点で物事をとらえる方法を学びます。世の中には自分が知らないこと、自分自身で無意識に決めつけてしまっていることがたくさんあります。取材も含め、現地の人と話す時間をたっぷりとっていますので、疑問を直接ぶつけてみてください。脱ステレオタイプを目指しましょう!

*過去45回(9カ国13カ所)の開催実績をもつ『Global Media Camp』はアウトプット重視のプログラム(記事をいくつも書いてアウトプットします)です。アウトプットにこだわる理由のひとつは、話を聞くだけでは知識の定着率はわずか5%ですが、他人に教えた(伝えた)場合は90%に上るという研究(ラーニングピラミッド)があるからです。20歳を超えたらアウトプット中心の学びに切り替えない限り、インプットしたことは頭に残らず、経験として積み上がりません。自己成長につながるのはアウトプットだと考えています。

『Global Media Camp』で得られる5つのスキル 

1)発見力

‥‥記事を書くには「ネタ&切り口」が不可欠です。取材ではまず、ネタ探しと格闘します。ネタは、その国の問題点や長所を指す場合も少なくありません。ネタ探しの日々は「見つける力」(発見力)を向上させます。

2)質問力

‥‥ネタ&切り口を見つけたらおしまい、ではありません。関連する情報をいかに集めるか(インプット)が重要。質問の仕方によって、得られる情報の質・量、ひいては記事の内容・レベルは大きく変わります。取材現場では、記事を書くために必要なたくさんの質問をします。質問力(情報を聞き出す力)を集中的に鍛えます。

3)考察力

‥‥取材(質問など)に基づく情報収集(インプット)・ブレインストーミング・記事執筆(アウトプット)・講師からのフィードバックを繰り返すことで、物事を掘り下げる体験をします。「これまで見えなかったこと」が見えるようになることも。ここでカギとなるのは、“関係が一見なさそうなもの同士”をつなげて考える発想です(たとえば「宗教」+「SNS」=どうなるでしょう?)。意外なこと・つながりを見つけた瞬間はまさに快感!

4)要約力

‥‥要点をまとめる力もつきます。言いたいことが不明瞭な長い話は、とりわけ社会に出ると聞いてもらえません。内容を薄めずに/抽象化せずに、いかに簡潔に表現できるか。これは記事(特に見出し、リード)の書き方に通ずるものがあります。要約力はいま注目のスキルのひとつ。これを特訓します。

5)文章力

‥‥カッコいい/美しい文章よりも、いかに伝わるか/読まれるかが大事ですよね? そのテクニックを学びます。文章力はコミュニケーションスキルの基本。レポートやエントリーシート(ES)の作成にも当然役立ちます。とりわけ現代は、電話よりも、メールを書く機会が激増しているだけに、文章で伝える重要性は高まっています。

『Global Media Camp』はこんな社会人&学生におススメ

◎途上国を掘り下げたい人
・途上国を深く知りたい(世界人口のおよそ8割は途上国で暮らしています)!
・国際ニュースの現場を見てみたい!
・途上国の人と深い話をしたい!
・多様な途上国を多角的に見る方法を学びたい!
・途上国で将来、仕事したい!
・難民、移民、国内避難民、スポーツ、貧困、教育、ジェンダー、少数民族、ソーシャル/地元のスモールビジネス、開発援助など特定の分野を取材したい!
・過去(歴史)と現在、未来のつながりを取材であぶり出したい!
・フィールドワークの練習をやってみたい!
・途上国の若者と仲良くなりたい(友情は、その国をウォッチし続ける「基盤」になります)!
・JICA海外協力隊、海外インターン・ボランティアに興味がある!

◎メディア・広報・コミュニケーションに関心のある人
・メディアに疑問を感じるから、自分で取材・記事執筆に挑戦してみたい!
・自分の足で取材した途上国のことを多くの人に発信したい!
・プロのジャーナリストになりたい!
・ジャーナリストの動きを体験してみたい!
・「ネタや切り口を見つける力」「質問する力」「深掘りする力」「要点をまとめる力」「伝わる文章力」を高めたい!
・英語(タイ語、ビルマ語、フランス語、スペイン語など)を使って、取材にチャレンジしてみたい!
・ESなどでアピールできる実績を積みたい!

『Global Media Camp』は2014年の春以来、フィリピン(セブ、ネグロス)、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、コロンビア、ベナン(コトヌー、トタ村)、インド(プネー、コルカタ)、タイ(バンコク、チェンマイ)、ルワンダの9カ国13カ所で合計45回開いてきた実績をもちます。参加者は合計215人。年齢は18~59歳と幅広いです。

大学生の場合、参加者が多いのは慶応大学、東京外国語大学、上智大学、早稲田大学、神戸市外国語大学、明治大学、立教大学、青山学院大学、東京大学、筑波大学、法政大学、横浜国立大学、大阪大学、一橋大学、北海道大学、立命館大学、中央大学、津田塾大学、東京女子大学、ICU、日本大学、同志社大学、奈良女子大学、茨城キリスト教大学、名古屋大学など。文系の学生はもちろん、医療や看護、都市開発、建築、プラントエンジニアリング、農業などを学ぶ理系の学生の参加者もいます。

社会人では会社員、JICA職員、NGO職員、大学教授、公務員、医師、看護師、会社経営者、青年海外協力隊の経験者・候補者・志望者、地域おこし協力隊、メディア志望者、フリーランサーなどにご参加いただいています。

帰国後はこんな特典も!

・ganas主催の「2026年春 グローバルライター講座」(5万5000円相当)を1万円で受講できます。ただし簡単なお手伝いをお願いする場合があります。

・ganasのボランティア記者として活動し続けたいとコミットの高い方は、ganas主催の「2026年春 77日記者研修」(6万9000円相当)に1万円で参加できます。

*いずれも、ganasサポーターズクラブに入っている/入ることが条件です

講師

長光大慈(ganas編集長)
途上国・国際協力に特化したNPOメディア「ganas」編集長/特定非営利活動法人開発メディア代表理事。上智大学法学部を卒業後、アジア最大の日本語媒体であるNNA(現在は共同通信グループ)のタイ支局とフィリピン支局を立ち上げる。電気新聞記者、フリーライター、デベックス・ジャパン・メディア部門責任者などを経て現職。合計10年以上の海外在住経験(米国、タイ、フィリピン、インドネシア、ベネズエラ)、50カ国以上の渡航経験をもつ。青年海外協力隊(現在のJICA海外協力隊)のOBでもある。ハンモックのコレクター。

現地コーディネーター

松田亜弓(ブラジル・サンパウロ在住)
ブラジル日本語センター職員。フリージャーナリスト、ライター。元JICA日系海外協力隊。前職は十勝毎日新聞社記者。専門は教育、文化、災害、動物園。

主催団体

特定非営利活動法人 開発メディア
2012年設立。途上国・国際協力を専門とするNPOメディア「ganas」を運営。下のボードで記事を発信中。キャッチフレーズは「途上国を知る。世界が広がる。」。

・ウェブサイト:https://www.ganas.or.jp/
・Facebook:https://www.facebook.com/ganas.or.jp/
・X:https://twitter.com/devmedia_ganas
・Instagram:https://www.instagram.com/devmedia_ganas/
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・ポッドキャスト:https://open.spotify.com/show/0yOzlKPgVivnKoxeVGdgjj
・メール:devmedia.ganas@gmail.com
・所在地:埼玉県入間市小谷田1666-4-412
・電話:080-3432-4844(長光)

『Global Media Camp』の報告会・説明会・関連イベントの全日程

【11/16(日)、12/1(月)】タイ/アフリカ/南米で「市民ジャーナリスト」になるってどういうこと? 『Global Media Camp』Zoom説明会

*情報は随時更新します。途上国トークを聞くだけでも楽しめますので、お気軽にお越しください!
*個別でのご相談にも乗ります。ご連絡はdevmedia.ganas@gmail.comまで。お気軽にお問い合わせください。

ブラジルのここが魅力、興味深い(日系移民の歴史と特徴)

・ブラジルは南米のおよそ半分の面積を占める大国。北部にはアマゾンがあり、先住民が多く暮らす。北東部はアフリカ系が、南部は欧州系が集中する。サンパウロやリオデジャネイロを擁する南東部は経済的に最も繫栄する地域。日系人のおよそ8割がこの地域に住む。

・日本からブラジルへの移民が始まったきっかけのひとつは、「黄禍論」(黄色人種が世界に脅威をもたらす、という人種差別的な考え)の広がりで、米国で排日運動が激化したこと。日本政府は1908年(ブラジルへの移民が始まった年)に、米国に送る移民を制限する日米紳士協定を結ばざるを得なくなった。

・日系移民が多い地域は第一に南東部のサンパウロ州、第二に北部のパラ州(トメアス移住地が有名)。それぞれサントス港、レシフェ港に移民船は着いた。「貯蓄」という成功に向けて、彼らは一斉に駆け出した。

・南東部に入った日系移民の多くは契約(コロノ)労働者としてコーヒー農場で、北部では綿花や果樹、ゴムなどの農場で働いた。目的は出稼ぎ。5年か10年働いて、故郷に錦を飾ることを目指した。ところが賃金は低く、お金はたまらない。それどころか10年経っても日々の生活さえ困るのが実情だった。

・ブラジルへの移民は、ブラジル政府の政策として「少なくも3人の稼働力(12歳以上)をもつ家族」であることが義務付けられた。このため移住目的で急きょ結婚したり、仮面夫婦になったり、赤の他人や夫婦の弟など十代の少年少女を養子にし、にわか家族を作ったりした。これを「構成家族」と呼ぶ。「家族移民」を原則にしたのは、労働者としてコーヒー農場への定着率を高めるためだったといわれる。

・家族移民の義務付けは他国ではほぼ例がない。ブラジルより9年早く始まったペルーへの移民では第一陣の790人は全員男性だった。対照的にブラジルでは第一陣の笠戸丸移民781人のうち186人が女性だった。米国ハワイやボリビアへの移民も最初は若い独身男性ばかりだった。

・家族移民であったことから、日本で生まれ、年少のときに親に連れてこられた「準二世」がブラジルでは多かった。彼らの多くは、ポルトガル語をきちんと習わず、かといって日本語の勉強もできず、なんの教養もないまま社会に放り出された。

・大言壮語する夫に連れてこられた「移民妻」もいた。想像を絶する辛さのあまり、母子で泣いて過ごす日々が続いたという。

・足手まといになる幼児は実家の老父母のもとに置いていくケースも多かった。

・養子にされた十代の少年少女は「子分」と呼ばれた。入国して数年も経つと、「構成家族」は分裂していった。

・十代前半の少年少女が大量に含まれていたことは、日本人同士の結婚や家族生活を可能にした。

・日系移民は初期のころ、マラリアや腸チフス、パラチフスなどに集団でかかり、大量に命を落とした。

・コーヒー農場の契約期間は1年。再契約はできるが、日系移民は風俗や習慣の異なるブラジル人の農場で働くことを嫌がった。異人種との接触はひんぱんになく、同化も進まなかった。

・移民が始まって5、6年経つと、日系移民が集まって農業をする「植民地」(コロニア、移住地)が現れてきた。日本の国策会社や国策組合、お金を持つ個人が土地を買ったり、ブラジル政府から無償で払い下げを受けた土地(ほとんどが原始林)を区分けしたりして、入植希望者に分譲した。

・1929年には、植民地の経営・移民の受け入れ業務・農業支援などを担う「ブラジル拓殖組合(ブラ拓)」が設立された。植民地を造成するためブラ拓がまず一括して原始林を買い、それを10~20町歩に区分けする。ここに入った日系移民は自営農であれ、雇用農であれ、自分の力で原始林を伐採、焼畑にしてコーヒーを植えた。コーヒーの新植が禁止されてからは綿が主体になった。

・同県人や同船者(「同航海」と呼んだ)が一緒になって土地を買うケースもあった。家の建設、森の伐採、道路の改修、植え付け、収穫などをすべて相互扶助的な労働関係で進めた。よりフォーマルな組織だと「日本人会」ができた。

・ほとんどの日系移民は植民地行きを希望した。分譲の農地が買えなくても、どうせ契約労働者のままなら日本人のところで賃金をもらって働くか、借地農になった。

・1930年代のブラジル南東部には600~700の植民地があったとされる。

・北部にはトメアス植民地(アカラ植民地)があった。ここは南米拓殖会社(現在のカネボウが主に出資)が企画したもの。「黒いダイヤ」と呼ばれたコショウのブームで一時期、大成功を収めた。

・植民地は「小さな日本」だった。日本語は通じるし、日本の習慣もまかり通る。子どもたちは午前はブラジルの学校に、午後は日本の学校に通った。日本語を学ぶことは日本の精神を学ぶことだった。日系移民の植民地はブラジルでは「人種的がん」とされ、排日運動が広がった。

・ちなみに米国では日本人が農地をもつことは禁止だった。ペルーは耕地面積が少なく、また少数の大地主が耕地を独占していた。ブラジルには原始林はいくらでもあった。

・1913年ごろから、サンパウロのコンデ街(コンデ・デ・サルゼーダス通りを中心とするエリア)に日系移民が集まるようになった。その数、1915年は推定300人。大半は「ポロン」と呼ばれる半地下の部屋に住んだ。ブラジル最初の日本学校「大正小学校」が1915年に開校したのもコンデ街。

・日系移民は小説をたくさん書いた。日の目を見ることはなかったが、「コロニア文学」という機関誌もあった。また、俳句や短歌もよく作った。俳句は季語が難しかったという。

・1929年に未曽有の世界恐慌が始まり、日本も空前の不況に突入した。失業地獄(浮浪者が増える)、娘の身売り、嬰児殺し、一家心中、強盗、売春などが多発した。日本政府が移民政策を強く促進したこととも相まって、ブラジルへの移民は増えていった。

・1938年にブラジル政府(バルガス大統領)は外国人同化政策を進め、日本学校は閉鎖に。

・1930年代後半のブラジルでは「第二世」というアイデンティティが出てきた。日本を父(祖国)のごとく敬い、ブラジルを母(母国)のごとく愛するいう解釈。ブラジル国家の一員として運命をともにする日系移民を指す。

・そうしたさなか、第二次世界大戦が勃発する。ブラジルは1942年1月(日本軍の真珠湾攻撃は1941年12月7日)、日本と国交を断絶した。サンパウロのコンデ街には当時4000人の日系移民が住んでいたが、ブラジル政府は1942年9月に、コンデ街とその近隣からの立ち退き命令を出した。

・第二次世界大戦が終わった後はブラジルの日系社会でも米国などと同様、日本の敗戦を認めない「勝ち組」と現実を受け入れた「負け組」の間で抗争が起きた。勝ち組が「天誅」と称して、負け組の同胞を射殺した事件も。訳のわからない内部抗争を起こす日系移民の評判はブラジルで最低だった。

・ラテンアメリカは戦火を免れたため、漁夫の利を得ていた。戦中のブラジル経済は好調で、とくに農産物は高騰した。迫害を受けた一方で日系移民の経済力は飛躍的に向上し、中産階級に。高い教育を受けたり、ホワイトカラーの仕事に就いたりする者も出始める。

・日本の敗戦で、日系移民の多くはブラジル社会にアイデンティティを求めるように。帰国の迷いを捨て、ブラジル永住を覚悟する。帰国心を「出稼ぎ根性」と蔑み、「われわれは先祖になるんだ」と言い始めた。戦前までの「強い国粋主義」の反動ともいえる。

・日系移民らは終戦後、祖国救済のために3年にわたって組織的に生活物資と義援金を送り続けた。

・日本人街がサンパウロのリベルダーデにでき始めた。契機となったのは、1953年にオープンした常設の日本の映画館「シネ・ニテロイ」。5階建てのビルで、レストランとホテルが上にあった。リベルダーデには巨大な赤鳥居や大阪橋もある。いまや東洋人街で、日本食をはじめ、韓国料理、中華料理の店も立ち並ぶ。

・サンパウロ市の日系人の人口は驚異的に増えていく。戦時中の8000人から1958年は7万人、1988年は32万6000人、現在は40万人とも。

・1934年時点では日系人の92%が農村にいて、都市で暮らすのは珍しかった。それが1958年には45%が都市に、1987年には89%まで上昇した。子どもに教育を受けさせるためだけでなく、コーヒー経済の凋落も重なった。

・日系移民は農業でスタートしたが、対照的にシリア・レバノン移民やユダヤ人、中国移民、韓国移民などは移住当初から主に都市に住み、商業を営んでいた。

・都市に出た日系移民は自営の道を選ぶ。洗濯や農産物の販売などが代表的。とりわけ農産物の流通・販売部門への進出はすさまじく、ブラジル最大の農協は日系の「コチア組合」。

・1970~73年のブラジルの平均経済成長率は12.4%。「ブラジルの奇跡」と呼ばれた。ブラジル経済の急成長で、各分野に人材が必要となった。日系の子弟も各方面に進出。大規模な日系社会離れが起きた。

・「ノン・セイ」という言葉がある。これは日系一世、二世と違い、混血も進み、深くブラジル人化したことを表す言葉。三世以降になると、日系人以外との結婚もためらわなくなった。

・教育への投資と大学への高い進学率が「勤勉な日系人」というイメージを受け付けた。ブラジルの名門サンパウロ大学は2000年、各学科の成績1位の卒業生を表彰した。87人中17人が日系人だった。日系人の割合は全人口の1%未満なので、これは驚異的な数字。

・このため1970~80年代は「日系人をひとり殺せば、大学入試に合格する確率が上がる」というブラックジョークがブラジルの受験生の間で流行った。

・日本へ「逆出稼ぎ」する日系人も出てきた。1980~90年代前半のブラジルはインフレが激しく、経済がどん底だった。バブル景気の真っただ中だった日本は1990年に出入国管理法を改正し、日本人の血を引いていれば在留許可を与えると特別扱いをした。

・日本で出稼ぎする日系ブラジル人の今後はおそらく、定住や帰化、日本人との結婚、また職業も多様化していくだろう。マイナス面は、単純労働に甘んじているため社会階層が低い問題、子どもの教育、いじめ、差別など。ブラジルへ渡ったときの状況と類似する。

・ブラジルではすでに、日系の大臣、連邦議員、州議員、市会議員、市長を輩出している。パラナ州の州都クリチーバの市長を2004年まで務めたタニグチ氏も日系人で、ブラジルで最も評価の高い市長だった。クリチーバはブラジルで最も住みやすく、また清潔な州都として知られる。

・日系移民100周年となった2008年はブラジル各地で記念イベントが催された。ルラ大統領も出席したが、これは日系人のブラジル社会への貢献が評価された証。またリオのカーニバルでは「日系移民100周年」をモチーフにしたサンバのパレードも登場した。

・現在の日系社会は、海を渡ってやってきた移民が同化する過程で適応するまでの安全地帯というより、「文化集団」。

『Global Media Camp』の過去の参加者の声(抜粋)

「特に印象に残ったのは、予想外に多くのベネズエラ難民たちと出会えたこと。生きることに前向きなパワーを直接感じ取れた。国内避難民へのインタビューでも心が揺さぶられた」(渡辺卓さん、社会人)

「ベネズエラ難民や国内避難民を取材できた。逆境にいる人たちは、想像していたよりも落ち着いていて、よく笑うなと思った。ただ、悲しみの片鱗が時々垣間見えることが気になった」(洲鎌槙吾さん、学生)

「『英語×途上国×書く力』という3つの学びがそろうのがGlobal Media Camp。ハードだったけれど、これまでの大学生活では積めなかった経験」(敷野雄一さん、学生)

「Global Media Campは、参加者の裁量に任される部分が大きく、思う存分取材できたのが良かった。他人の言葉を情報としてただ得るのではなく、なぜそうなったのかを考える姿勢が身についた。スキルアップしたい人にはおススメ」(石井ゆめみさん、学生)

「取材する際に、オープンクエスチョンに頼りすぎない必要性を身にしみて感じた。知識がなくても『なぜ』『どのように』を使えば、簡単に質問できる。でもそれでは相手は答えにくいし、なにより自分の頭で考えることを放棄することになる」(向出洋祐さん、学生)

「暮らしている人たちから実際に話を聞き、記事を書くことでその国の歴史や人々の考え方に対する理解が深まる。自分がしっかり理解していないと他人に伝えられないから。ただの旅行では絶対に味わえない学び」(岡村有梨沙さん、学生)

「最大の収穫は『情報の聞き出し方』を学べたこと。インタビューしながら見出しをイメージし、それに基づいて必要な情報を収集するのは大変だった。でも徐々にコツをつかめたことが達成感につながった」(森春奈さん、学生)

「スラム街や国内避難民居住区など、自分一人ではアクセスが難しいところにも行け、またアウトプットの機会も用意されているのは貴重」(榊原麻由さん、学生)

「コロンビアの先住民の取材が印象的。自分がもっていたイメージとかけ離れていて驚いた。日ごろからニュースを見て、疑問に思ったことを調べる癖をつけると、世界は広がるんだなと感じた」(丸山幾子さん、社会人)

「南米へ行ったのは初めて。麻薬都市から平和都市へと変貌を遂げたコロンビア・メデジンを見てみたかった。取材を通して、隣国ベネズエラとのかかわりの深さ、難民が流入するリアルについて知ることができた」(福田朋子さん、社会人)

「毎日がおもしろすぎた。そして大変すぎた。あの人にも取材したい、こんなことも知りたいという好奇心と、記事をたくさん書いて発信したいけれどなかなかできないという葛藤。これからも書き続け、自分をスキルアップさせたい」(加藤美希さん、社会人)

「外国人とここまで密にコミュニケーションをとったことはなかった。良い記事を書くためには、少しでも多くその国のことを知ることが必須だから、必死に取材した」(成田丈士さん、学生)

『Global Media Camp』の過去の参加者が書いた記事(ブラジルは初開催となりますので別の国のもの)~こんな記事が書けます! ぜひご一読を~

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