【フィジーでBulaBula協力隊(11)】語学上達の秘訣は「口論」にあり? 隊員の現地語ぶっつけ学習法

昼食をとる配属先の役場の同僚たち。早口のヒンディー語が飛び交う中に入っていくのは、なかなか勇気がいるが、これも生きた語学取得のため昼食をとる配属先の役場の同僚たち。早口のヒンディー語が飛び交う中に入っていくのは、なかなか勇気がいるが、これも生きた語学取得のため

青年海外協力隊員(職種:環境教育)としてフィジーで活動を始めて9カ月。この間、最大の支障だったのは、文化の違いでもなく、現地のスローペースでもなく、「語学の壁」だった。英語と複数の現地語が入り混じって話されるこの国で、私がどうやって言葉の壁と奮闘し、曲がりなりにも現地語でコミュニケーションしてきたのか、これまでの体験をもとに振り返ってみたい。

■習ったはずの現地語が通じない

かつてイギリスの植民地だった歴史を持つフィジーの公用語は英語。だが、その他にも現地語であるフィジー語、インド系移民が話すフィジー・ヒンディー語が話されている。英語だけでも生活に支障はないが、現地の人達と腹を割って話をするには、やはり英語を含め3つの言語をカバーできたほうがずっといい。

英語は派遣前にJICA(国際協力機構)の訓練所で2カ月間、フィジー語・ヒンディー語は現地に来てからそれぞれ2週間ずつ集中レッスンを受講。現地語は、地元の村にホームステイもして勉強したので、言葉の問題でさほど苦労することはないだろうと思っていた。

ところが、いざ現場に出てみると、英語はともかく、フィジー語とヒンディー語は単語を聞き取ることで精一杯。会話のキャッチボールなどできたものではなかった。さらに困ったのは、地元の人達がフィジー語では「方言」で会話をしていたことだ。

私の住むフィジー西部ナンドロガ・ナボサ県のシンガトカ町では、標準語とは異なる“ナボサ方言”が使われている。例えば、フィジー語で「やあ」を意味する「ブラ」は、ナボサ方言では「コラ・ヴィナ」。「またあした」を意味する「ニマタカ」は「イグゥアタ」となる。さらに言うと、スラングにも近い方言が、日常会話のあちこちに出てくる。派遣当初、フィジー語でのコミュニケーションはまさにお手上げだった。

■同僚は興奮すると現地語に

私の配属先の町役場では、フィジー系の職員が4割、インド系が6割を占めている。普段の業務は基本的に英語で行なわれるため、書類作成やメールなどもすべて英語が使われる。ところが、フィジー系職員同士、インド系職員同士となると話は別だ。ミーティング中、ランチ休憩中、私がいるのもお構いなしに、気づくといつもフィジー語・ヒンディー語の“現地語トーク”がいつの間にか始まっている。

特にインド系の同僚は、会議などで議論が過熱すると、すぐに現地語で話し始める傾向がある。言葉の端々は聞き取れるため、全体として何を話しているのかはだいたい想像できる。しかし、ただでさえ私には聞き取りづらいヒンディー語を、早口でまくし立てられると、なかなか相手の意図がつかめない。ここまでくると、私の語学力も限界だった。

■嫌がられるほど質問する

「もう1回言ってくれる?」「簡単に言いなおして」。こんな状態のままでいるわけにはいかないと思い、嫌がられるのを覚悟でとにかく相手に言葉を繰り返してもらうことにした。

英語の助けを借りつつ、オフィスや街の中で私があまりに同じフレーズを繰り返すものだから、あからさまに愛想を尽かされたり、軽い口論になったりしたこともある。からかっていると思われたり、うんざりされたことも一度や二度ではない。

しかし、面白いことに、口論中は言葉が自然に口をついて出ることがある。早口でどなるようにしゃべるインド人に少しひるみながらも、私も負けじとヒンディー語で返すようにした。そうすると、頭が軽い興奮状態になっているせいか、普段なかなか出てこないフレーズまで思いつくようになるから不思議だ。

■「口論」の効用は会話力の向上?

こうした「口論」のおかげかどうかはわからないが、言葉を浴び続け、耳が慣れてきたこともあり、派遣から数カ月が経った頃から、徐々に現地語の会話がクリアに聞こえるようになってきた。

「ひたすら単語をメモ」「会話の録音」「テキストの復習」といろんな勉強方法を試してみたが、現地語の会話を習得する上で最も効果的だったのは、やはりネイティブスピーカーを相手にしゃべり倒すことだった。

フィジー語にせよ、ヒンディー語にせよ、日常的に使われるフレーズは実は意外と限られている。相手が話す言葉をそのまま記憶し、いくつかパターンさえつかんでしまえば、あとは単語を入れ替えるだけで会話は成立するのだ。

英語、フィジー語、ヒンディー語。日本の四国ほどの小さな島国でありながら、異なる3つの言語が独特のバランスを保ちながら共存しているフィジー。仕事でフィジー人の同僚に思うように自分の意見が伝えられない時、乗り越えなければならない「言葉の壁」の高さを改めて意識させられる。それでも、私はそんなフィジーにいられることを「贅沢」に感じる瞬間がある。いろんな人といろんな言葉でわかりあう難しさとおもしろさ。この経験はきっと人生でも得がたいものに違いない。(高野光輝)