「日本の若者よ、自分の可能性を信じよ」、国連の魅力を伝えるWFPスーダン松元正寛さん

WFPスーダン事務所に勤務する松元正寛さん。スーダンでは紛争やエルニーニョ現象による干ばつで食糧支援のニーズが高まっている。写真はコンゴ民主共和国で撮影

「日本の若者よ、自分の可能性を信じよ」。こう熱く語るのは世界食糧計画(WFP)スーダン事務所でプログラム・ポリシー・オフィサーを務める松元正寛さん(41)だ。松元さんは「日本の若者に国連機関で働くことの魅力を伝えたい」と、休暇で日本に帰国するたびに講演して回っている。

■講演は先輩への恩返し

講演活動をしようと決めたきっかけは、日本の外務省が人件費などを負担して若い日本人を国連機関に送り込むJPO制度の選抜試験だった。松元さんは「当時勤務していた世界銀行の先輩がJPO試験の受験を勧めてくれた。先輩のアドバイスがなければ、国連職員にならず、今の自分はない。講演活動は先輩や外務省への恩返しのつもりでやっている」と語る。

松元さんはこれまで、大学で自らのキャリアパスについて話したり、スーダンでどんな仕事をしているのかを伝える「松元通信」を母校の高校に配ったりするなど、様々な方法で日本の若者にメッセージを送ってきた。7月12日には、外務省と連携して「国連WFPで働くには?」と題したキャリアガイダンスを都内で開いた。

「国連機関の魅力は国籍関係なしに働けることだ。多種多様な考え方をもつ人たちと働くことで、多くの学びが得られる」と松元さん。だが、必ずしも国連職員になる必要はないというのが松元さんの持論だ。「自分が納得する生き方を模索するうえで、国連職員がひとつの選択肢になればいい。そう思って講演している」と胸中を明かす。

日本には自分の生き方に疑問を感じながら日々を送っている若者が少なくない、と松元さんは感じている。「可能性があるのに、疑問を感じながら生きるのはもったいない。自分の可能性を信じるためにも、まずは海外に出てみてほしい」と訴える。

■被災をきっかけに国連の道へ

松元さんは大阪の私立高校を卒業した後、大学には進学せずにパチンコ屋で働いていた。転機が訪れたのは19歳(1995年)で阪神淡路大震災に被災した時だ。「被災する以前、私は社会で敷かれたレールの上を生きてきた。自分が被災したことで、敷かれたレールに乗る人生に疑問を抱くようになった」と松元さん。震災後に国際公務員(国際機関の職員)のキャリアパスが書かれた本を偶然見つけ、国際公務員を目指すようになった。

国際公務員になるために一念発起し、米国留学を決意。米国の大学を経て、2005年に米国のジョンズ・ホプキンス大学院で国際関係・開発学の修士号を取得した。その後2年間は米州開発銀行でインターンを経験し、2007年、世界銀行に就職した。だが世銀で勤務を続けるうちに「現場で働くのが自分の役割だ」と認識し、JPO試験を受験。無事合格し、2010年からWFPの職員としてアフリカのチャド、コンゴ民主共和国、スーダンを渡り歩いた。

■世銀の勤務経験を生かす

現在はWFPスーダン事務所でプログラム・ポリシー・オフィサーとして勤務する松元さん。首都ハルツームの本部と郊外の支局の橋渡し役として、食糧配布の方法を調整している。松元さんは「支援方法は現地の立場から考えていくが、決定するのは本部だ。両者の意見を反映させるのは難しいが、政策立案を中心とする世銀で働いたおかげで、両者の視点から考えることができる」と話す。

世銀の勤務経験が生きたエピソードがある。WFPスーダン事務所は2015年7月、2年間で520万人に食糧を支援する長期復興支援計画を打ち出した。計画の一環として本部がぶち上げたのが、スーダン西部のダルフールの現地支局にATMを設置し、受益者が専用のカードで現金を下ろせるようにするシステムだ。松元さんは本部の計画を実施する方向で現地支局と調整を重ねた。

ところが支局は「ATMを設置すれば強盗が増え、受益者のリスクが上がる。従来通り、支局のスタッフがお金を管理すべき」と本部の計画に反発。松元さんは「本部の計画を一方的に通すのではなく、現地の意見も大切にしなくてはいけないと思った」と当時を振り返る。最終的には支局の提案を通す代わりに、ATMを2台のみ設置することで両者の主張を反映させた。

被災するまでは敷かれたレールの上を生きてきた経験から松元さんは「日本の若者には自分にしか描けない人生を描いてほしい。そのために、より多くの若者に国連の魅力を発信できるようなシステムを作りたい」と意気込む。