ミャンマーに帰りたいけど帰れない、タイに逃れた“おっとりした普通の女の子”が抱える葛藤

タイ(メーソットに2年、チェンマイに3カ月)に来て2年3カ月経つシャロンさん。母との二人暮らし。「チェンマイでの日々はハッピーではない。だけどミャンマーにいると危険だから仕方なく来た」とうつむき加減で話す

「ミャンマーで家族と一緒にまた暮らしたい」。こんなささやかな希望も、軍政下のミャンマーでは民主化運動にかかわると難しくなる。タイ北部のチェンマイに逃れたシャロンさん(22歳)もそうした一人だ。ただシャロンさんは「難民」という言葉から想像するタフな性格の持ち主ではなく、いわゆる“おっとりした普通の女の子”。異国の地でどう人生を切り開いていけばいいのか、という葛藤をのぞかせる。

CDMで引きこもり、平和を祈る日々

シャロンさんはヤンゴン・インセイン出身のカレン族。キリスト教徒の中流家庭に生まれ、母親の寵愛を受けて育った。2021年2月に軍事クーデターが起きたときはインセインにある公立のクウェーガポー病院でナースのアシスタントとして働いていた。就職してまだ1年半だった。

軍政への抗議としてシャロンさんはすぐに病院を辞めた。この病院には医師30人、看護師50人ぐらいが勤務していた。シャロンさんを含む半分強が、「市民不服従運動」(CDM。軍事クーデターに抗議する意味で、公的機関で働く人が職務をボイコットすること)に参加したという。

ただシャロンさんは仕事を辞めた後、特に何もしなかった。「私立の病院に転職しようとも思わなかった。私立であっても、税金は軍政に行くから」

母がインセインで経営していた小さなミャンマー料理レストランを手伝った。といっても料理を時々、自転車で配達する程度。家の中で一日中「平和が再び訪れるように。軍政が終わるように」と祈った。

母は、民主主義を取り戻すために国軍と戦う民主派の軍事部門「国民防衛隊」(PDF)への寄付を続けていた。金額は毎月だいたい750~2250バーツ(3400~1万200円)。

だがPDFをサポートしていた母の友人が逮捕された。このままだと危ない、と母はレストランを閉め、ミャンマーと国境を接するタイ側の街メーソットへ逃げた。シャロンさんも4カ月後に、母の後を追うことになる。19歳だった。

シャロンさんの兄と父もヤンゴンを離れた。避難先はミャンマー南部ダウェイの郊外にある村。兄はそこで韓国系の建設会社で仕事を見つけたという。

軍政に抗議した一家にとってヤンゴンは危険すぎた。一家はバラバラとなった。

「母や父と私が一緒に、ヤンゴンから逃げたら、近所の人に『逃亡した』と知られてしまう。だから家族はみんな単独行動をした。不法入国を助けてくれるエージェントにもバラバラに行くことを勧められた」とシャロンさんは説明する。

ひとりで不法入国、「捕まるかも」と震えた

ミャンマーからタイへひとりで越境したシャロンさん。パスポートは持っていたが、CDMに参加した過去があるため、使えば身元がバレてしまう。エージェントに助けてもらい、パスポートなしでタイへ不法入国した。そのエージェントは母の知り合いだった。

ヤンゴンからタイとの国境の町ミャワディまでは自力で行った。そこからタイ側のメーソットに入る。エージェントには2000バーツ(約9100円)の謝礼を払った。これ以外にも、ミャンマー側の出入国管理局に50バーツ(約200円)、タイ側では500バーツ(約2200円)のわいろを渡したという。

「エージェントが全部やってくれたけど、私はひとりぼっちだったし、怖かった。イミグレ(出入国管理局)を通るときは髪で顔を隠して、見られないようにした」

国境を越えるのに2時間かかった。タイ側に入ったら、タイ警察がミャンマー難民ひとりひとりを取り調べしていたので、その日のうちにメーソットの街中にたどり着けなかった。車の中で一泊した。「捕まるかも」と震えて眠れなかった。泣きながら祈った。

メーソットでは、民主化運動にかかわった人たちをサポートする団体「ニュー・ミャンマー・ファウンデーション」(NMF)から住む場所、食事(お米のみ)、衣服、お金の支援を受けて暮らした。家に住めたのは1年のみ。ふつうは半年というからラッキーだった。この家は2階建てで、20~30人の女性が雑魚寝していた。

また、シャロンさんはCDMに参加していたこともあって、民主派が樹立した国民統一政府(NUG)からの食料支援を受け取れたという。ただ数カ月後に止まった。

内気な性格のシャロンさんは最初の1カ月は家の中に引きこもっていたという。少し慣れてきたら、ミャンマーの食料支援団体でボランティアを始めた。その団体は、15バーツ(約60円)という格安の値段でミャンマー難民に食事を配っていた。ここでボランティアすると、食事が無料でもらえた。

頼みの綱だったNMFからのサポートも、シャロンさんがメーソットに来て10カ月後、ストップした。軍政が24年2月に徴兵制の導入を発表したことで、国軍兵士にさせられることを恐れたミャンマーの若者がメーソットに押し寄せたからだった。

「(当時は)在留資格もない。仕事は見つからない。タイ語もわからない」。シャロンさんの心はますます閉ざされていった。

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