PDFの兵士として戦い、障害者となったツリー(コードネーム)。取材中はロンジーをはいていた。ザガイン管区とカチン州の境にあるインドー出身。軍事クーデターが起きたときは、ヤンゴンの携帯電話ショップに勤務していた。自分は何かをすべきか、何ができるだろう、と必死に考えたという(タイのチェンマイで撮影)爆発で破片が脳を通過、死を覚悟
――どうやって信用を獲得していったのか。
「KNUは、民主派が樹立した国民統一政府(NUG)傘下の国防省(MOD)さえまったく信用していなかった。だから我慢強く、一緒に働いたり、友だちを作ったりしてきた。KNUはわれわれPDFの兵士のことを徐々に信用してくれるようになった。
2021年の終わりごろから、KNUの教官が訓練に来てくれるようになった。2022年の初め、私は戦闘に初めて参加した。場所はカレン州北西部の山岳地帯タンタンジー。10人以下のゲリラ部隊。KNUとPDFの混成部隊だった。KNUの兵士が隊長を務めた。
国軍兵を見つけたら撃たないといけない。私は深く考えないようにした」
――戦闘で命の危険にさらされたことは。
「2024年3月20日に首都ネピドーの近くで戦っていたときのことだ。午前10時ごろ、国軍が放ったミサイルが飛んできて、何かが、すぐそばにいたPDF兵士のズボンのポケットに入っていた爆薬にヒットしたためか、それが爆発した。
なんかの破片が私の頭部に左耳のあたりから入ってきた。脳を突き抜け、貫通せずに頭の中で止まった。私は自分が負傷したことがわからなかった。耳は聞こえた。友人のPDF兵士を助けようとしたら、彼が叫んだ。『ツリー(私)を見ろ』と。彼はそのあと死んだ。
当時の状況はこれ以上、よく覚えていない」
――どうやって命が助かったのか。
「カヤー州にあるルカ病院に車で運ばれた。ここは軍事クーデターが起きてから、軍政への協力を拒んで公立の病院を辞めた(CDM=市民不服従運動)医師や看護師らが、PDFの兵士らを治療する目的で設立した野戦病院だ(カヤー州にはキリスト教徒が多いため、聖書に登場する“愛すべき医者”のルカにちなんで名づけられた)。
ルカ病院に着いたのは翌日の午前5時だった。車の中では、村人の衛生兵が麻酔を打ち、頭を包帯で巻いてくれた。
ルカ病院では通常、脳外科の手術はできない。運が良いことに専門医がいたので急いで手術をしてもらった。彼がいなければ私は死んでいた。手術が終わって1週間は寝たきりだった」
脳の障害で読み書き不能に、右手も麻痺
――後遺症は。
「破片が頭の中を通過した際、脳の一部が溶けたようだった。脳がダメージを受けたことで、母語であるビルマ語の能力が劇的に落ちた。ボキャブラリーはだいぶ戻ってきたが、読み書きができなくなった。いまは練習中だ。
右手と右足も自由に動かなくなった。右手で箸やペンは使えない。食事は左手でスプーンを持ち、なんとか食べている。右足も少し引きずる形でしか歩けず、もう走れない。
私が重傷を負ったことを親に伝えると、PDFの兵士になるときは陰で泣いていた母は『元気を出せ』と励ましてくれた。厳格だった父は涙を流した。
半年入院し、退院した後、ネピドーの近くの「警告ゾーン」(命の危険がある立ち入り禁止・制限区域)へ戻った。ただ走れないし、銃も撃てない。なので戦闘員としてではなく、PDFに新たにやって来た兵士と初期からいた兵士との間で起きている“いざこざ”を解消する役割を私は担った」
――自分を負傷させた国軍兵のことを恨んでいるか。
「愛憎の感情はない。国軍の兵士は洗脳されている。同じような環境に置かれれば、だれでも同じ行為をするだろう。
問題の根源は、ミャンマーの政治システムにある。これが悪い。民主主義へと変えるには、いまの内戦は通らないといけない道なのかもしれない。ただそのためにはだれかが犠牲になってしまう。
国軍兵を殺すのではなく、政治システムを壊す。現在の闘いは完全な民主主義を得る過程だと考える」

手術前、手術後、現在の患部の写真。すさまじいレベルの重傷だったことがわかる














