2度の自殺未遂と家族にナイフで刺されたセネガルの24歳、「僕はこの国を出ないと生きていけない」

取材の後に、ソファでポーズをとるアラッサンさん。壮絶な半生を語った直後でも、周囲を楽しませる明るさを見せていた(セネガル・ダカールのアラッサンさんの自宅で撮影)

自分の人生を守るために自分自身と闘いながらもがくセネガル人男性がいる。アラッサン・ジャラ・ファルさん(24)だ。母には受け入れてもられず、母のいとこにはナイフで殺されかけた。「ダンスや絵を描くことは男性的ではない」と夢を奪われた。自殺未遂を2度したアラッサンさんは「セネガルを出ないと生きていけない」と深い悩みを吐露する。

たった一つの居場所を失った少年

セネガルの首都ダカールで暮らすアラッサンさんは2002年、ダカールから車で約4時間のリシャドールで生まれた。出自はセネガルで3番目に多い民族セレールだ。

セレールは家族や共同体を重んじる保守的な価値観が強いとされる。「男性はこうあるべき」という考えも根強く、アラッサンさんの“自由な生き方”は受け入れられない。

父は、アラッサンさんが2歳の時にがんで死んだ。母はその後、仕事のため隣国カーボベルデへ渡り、幼い彼は取り残された。「親に見捨てられた」と感じていたという。

母の姉の家で育てられることに。「僕にとってすべてのような存在だった」。そのおばも2010年に他界する。母のように彼を6年間育ててくれた存在を失った喪失は大きかった。

「魂を失ったようだった」。アラッサンさんは自殺を試みた。

孤独の中で生き延びた日々

学校でも居場所はなかった。「お前はゲイだ」といじめられる日々。12歳のころから、手の震えが止まらない病気「本態性振戦(エッセンシャル・トレマー)」を発症。その症状をクラスメートから笑われることもあった。

おばが亡くなった後は親せきの家を2〜3年ごとに転々とする。家族とバラバラで暮らす年月が長かった。3人きょうだいのアラッサンさんは兄や妹とも離れ離れ。「僕はいつも孤独だった」

極貧だったため畑で働きながら生活する。日本でも10代前半の子どもが自力で生きていくことは難しい。経済的に厳しいセネガルでは当然、家族の支えがない限り、想像を絶する過酷さがある。

15歳のころからは母のいとこの家で暮らし始めた。だが日常的に虐待を受けるようになったという。

大学受験の日の朝、アラッサンさんは家の掃除を命じられる。「試験が終わった後に掃除しよう」と考え帰宅したところ、母のいとこは激怒。彼をナイフで切りつけた。その傷跡は今も足に残っている。

「強い恐怖と衝撃、そして理解できないという感情が入り混じっていた」

アラッサンさんはこの家を去った。カーボベルデから帰国していた母と暮らすことに。だがわだかまりは消えていなかった。

彼の心の中に強く残っているのは「(母やセネガル社会から)自分の行為をジャッジ(否定)され続けてきた」という感覚だ。「ダンスは男性のするものではない」。この一言が、彼から自分らしさを奪っていった。

「セネガルの現実から逃げたい」

彼は再び、自ら命を絶とうとした。2回目の自殺未遂だ。卒業した高校の校舎の3階から飛び降りた。セネガルの建物は天井が高いため3階といっても日本の建物の5階くらいの高さに相当する。

一命はとりとめたが、約20日にわたって昏睡状態が続いた。足と腰の2度の手術と3カ月の入院。今も健常者のようには歩けない。

ダカール市の中心部からバスで1時間のところにあるンバオに建つアラッサンさんの自宅の応接間(ここで取材した)。シャンデリアが吊るされていた。ほかの部屋も同じように美しく整えられていた

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