【フィジーでBulaBula協力隊(4)】信仰に生きるフィジー人、“ぼんやり”した国民性はその裏返し?

マイクを持ってゴッドをたたえる歌を合唱するフィジアンたち。リレー形式で歌っていく様子は、さながらカラオケ大会のようだマイクを持ってゴッドをたたえる歌を合唱するフィジアンたち。リレー形式で歌っていく様子は、さながらカラオケ大会のようだ

青年海外協力隊員(環境教育)として活動していると、仕事やプライベートでさまざまな人と出会う。一通りフィジー人と顔なじみになり、連絡を取り合う仲になると聞かれることがある。「あなたの宗教は何?」。ここは日本ではない、と思う瞬間だ。今回はフィジーの宗教事情を考察してみたい。

■私との約束はスルー、でも宗教の規律は守る

どの宗教を信じているのか、と聞かれたら、私は大抵こう返す。「特定の信仰はないけれど、あなたたちの宗教には敬意を払う」と。彼らはきょとんとして、くちびるをへの字に曲げる。決まった信仰をもたない私は、ここではかなり少数派だ。

四国ほどの大きさしかないフィジーだが、実は宗教のバラエティーは豊富。「フィジー人」が、生粋のフィジー人(フィジアン)とインド系住民に大きく分かれるのがその理由だ。

フィジアンの大半はキリスト教(プロテスタント)を信仰する。その他の宗教を信じる人はごくまれ。この国の半数以上がクリスチャンだとされる。

インド系住民は、イギリスの植民地時代に連れてこられた労働者の子孫たちで、7割はヒンズー教徒。残りの3割はイスラム教やシーク教の信者だ。少数にもかかわらず、フィジー社会の中で影響力をもっているのがおもしろい。

どの宗教の信者にしろ、規律は驚くほどきちんと守る。私の職場はインド系が多いため、しばしば肉食禁止になる。彼らは週に1回「菜食日」を設けるヒンズー教の信者だ。フィジアンにしても、食前のお祈りや教会通いは欠かさない。

その半面、フィジー人(土着系、インド系など)は、私との約束はあまり覚えてくれないし、時間の感覚もゆるい。普段はのんびりとしていて、正直、ぼんやりしているところもある。普段の生活態度と信仰へのスタンスは真逆なぐらい対照的だ。

■教会に行ってみた、歌・踊り・聖書朗読

フィジー人はなぜ、宗教の教えにここまで忠実に生きるのだろう。そう疑問に思っていた時、近所のフィジアンから「教会(メソジスト派)に来ないか」と誘われた。宗教にマイナスイメージをもつ典型的な日本人である私は一瞬、変な勧誘はされないかなと悩んだが、ここはフィジー。二言目には「イーヨ」(フィジー語で「もちろん」の意)と言い、教会に行ってみることにした。

次の日曜日、「ほらここが俺たちの教会だ」と連れてこられたのは、民家の裏のオープンスペース。そこで、大人・子ども合わせて15人ほどが寝転び、聖書を読み、ギターを弾いている。厳粛な雰囲気を予想していただけに、少し拍子抜けだ。

ところが牧師がやってくると、空気は一変した。神妙に祈りを全員で捧げ、始まったのは聖書の朗読会。フレーズをひとりずつ読ませ、それを牧師が解説していくさまは、小学校の音読の授業のよう。フィジー語で読みあげるので、私には何を言っているのやらほとんどわからない。

彼らの真剣な様子に感心していたら、急に立ち上がって、歌いながら踊り始めた。「ハレルヤ」「ゴッドイズラブ」と連呼するのはやっぱりフィジアンだ。伴奏の鍵盤ハーモニカとギターもばっちり決まっている。ここがハイライトかと思いきや違った。2~3曲歌った後にはまた座り、朗読会を再開。これが3時間繰り返された。

私の頭にあることがふとよぎった。フィジアンは祈りにエネルギーを使いすぎているから、普段どこかぼんやりしているのではないだろうか。もしそうだとしたら時間にゆるいのも、忘れっぽいのも、少しは納得がいく。「ゴッドは特別なんだ。わかるか」。熱心に私を説く彼らを見ていると、ますますそんな気がしてくる。

キリスト教、ヒンズー教、イスラム教‥‥。小さな島国の中にこれだけ信仰の違う人たちがいても、不思議とそこに対立や争いはないように私には見える。フィジアン、インド系など住民はそれぞれのペースを守って、暮らしている。

ひょっとしたら、物事にあまりこだわらないフィジー人の性格は、多人種国家で生きるための知恵なのかもしれない。宗教は本来、争いを好まないはず。お気楽でのんびりとした印象が強いフィジーにも、良い意味で「宗教国家」としての顔が確かにあった。