【フィジーでBulaBula協力隊(6)】郷に入れば郷に従え、勤勉でなくたっていい!?

フィジーの子どもたちは少しシャイで、それでも慣れると底抜けに明るい。外国人は観光客を除けばほとんど見たことがないので、日本人には興味津々。授業の最初の難関は、彼らを静かにさせることフィジーの子どもたちは少しシャイで、それでも慣れると底抜けに明るい。外国人は観光客を除けばほとんど見たことがないので、日本人には興味津々。授業の最初の難関は、彼らを静かにさせること

ここはやっぱりフィジーだ――。青年海外協力隊員としてこの国のシンガトカ町役場に配属されて3カ月、この地域の小学校で環境教育の巡回授業を始めた。そこで遭遇したのは、始業時間を守らない、教室を途中で抜け出す教師たち。今回は、これまでの活動で感じた、フィジー人の仕事に対する姿勢について書いてみたい。

■授業中にフェイスブックで夫と会話

「はーい、テキスト一番上の問題解いて」と児童に告げると、説明のないまま答え合わせをする。授業中に携帯電話が鳴ったから、と教室を出たきり帰ってこない。さらには授業の時間になっても教室へ来ない‥‥。これはすべて、私がここ2~3週間の小学校訪問で見た教師たちの姿だ。

忘れもしないことがひとつある。学校巡回を開始する前に、授業の参考になればと小学校を訪問した時のことだ。校長にあいさつをし、言われるままひとりの女性教師についていった。教室に入り、私を児童へ紹介してくれたところまでは良かった。

「どんなふうに授業をするのか見せてほしい」とお願いする私に、「もうしているよ」との返事。見渡すと、児童たちは、算数の教科書の練習問題をノートに写していた。

それが終わると、児童たちはおしゃべりをし始めた。さながら休み時間のようだ。教師はその間、自分の机に座って、児童が来たら個別に答え合わせをするのみ。この教師は授業中の大半の時間、自分が持ち込んだパソコンを使ってフェイスブックに熱中していた。

「授業だけに集中したら」と私が指摘したところ、「ニュージーランドにいる夫と連絡を取っているの。彼は忙しくて今しか話せないのよ」との答え。その言い訳が本当かどうかは定かでないが、いずれにしても「国の将来を担う子どもからすれば、あんまりじゃないか」と私は思った。

驚いたのは、女性教師にまったく悪びれた様子がないこと。外国から来た私に注意されたからか、不満げな表情を浮かべる。「他の教師もしていることなのよ。よそ者のあなたには関係ないでしょ」とあたかも言いたげだった。

■計算づくのサボりはプライベートのため

もちろんフィジーの小学校のすべての教師が彼女と同じではない。熱心に教える先生だっている。でも日本人の私からみると、首を傾げたくなることが多いのも事実だ。

例えば、児童に問題をさせておきながら、自分は職員室でティータイム。授業中なのに、なぜか私用ですぐに早退する教師。いやらしいのは、それも上司に目を付けられない程度に、計算しながらサボっているようなのだ。いったいフィジー人にとって「授業」や「仕事」とは何なのだろうか。

私はこうだと思う。大半のフィジー人にしてみれば、仕事の優先順位は決して高くない。働く時間は短いほうがいい。というのも、自分の家族や友だちと過ごす時間をたくさんとれるからだ。フィジー人にとって、最も優先したいのはプライベートだ。

シンガトカ町役場の私の同僚たちも行動パターンは同じようなもの。朝の遅刻はままあるが、残業はほぼゼロ。朝遅れる理由を聞くと「いや、子どもを学校に送っていてね」とか「家族が風邪気味で」など、いつも同じ言い訳をする。真相はさておき、フィジー人はなんせ「家族・友だちモノ」に弱い。たいていは「セット(了解)」と言って許す。事実かどうか詮索しないのもフィジー・スタイルだ。

怖いのは、それに慣れ始めている自分がいること。今では授業中にパートナーの先生が教室を抜けても気にならなくなった。同僚の遅刻も、フィジーだから仕方がないな、とさらりと流す。

協力隊のスローガンのひとつに「現地の人々とともに」というのがある。派遣国に溶け込み、現地の人たちに寄りそって活動する重要性をうたったものだ。共感できる半面、完全に「フィジー人」になってしまうのはやっぱり遠慮したい。日本に帰国した後の逆カルチャーショックが激しくなるのは目に見えているから。