南の島に渡った日本人神父①~マンギャンの島に集まった4人の日本人~

マンギャンの子供たちの演劇

ファーザー・トニーとは、フィリピンはミンドロ島のサンホセという町で出会った。東南アジアでは夏真っ盛りの3月のことで、その日も相変わらず、からだ全体が太陽にあぶられているような暑さだった。

ファーザーとは英語でカトリック神父を意味するが、ファーザー・トニーは愛知県出身の日本人神父だった。本名は高木達雄。世界地図にも載っていない無名のこの町で暮らしていた。

ミンドロ島は、フィリピンの首都マニラの南およそ150キロメートルに位置する。7000を超える島々が浮かぶフィリピン諸島の中では7番目に大きい。といっても岐阜県より一回り小さな、マイナーな島のひとつだ。これといった観光名所もない。セブのような一大ビーチリゾートでもなく、あるのはどこにでもある素朴な浜辺ぐらい。ミンドロ島、とりわけサンホセまで足を伸ばす観光客は数えるほどしかおらず、開発の波が押し寄せていない分だけ、この地で暮らす人々は見るからにゆったりとした時間を過ごしていた。

ファーザー・トニーは当時、30代半ばだったと思う。色白でヒゲの濃いやつれ顔という、僕が勝手に抱く神父のイメージとは正反対で、体育会系部員のように背筋がピンと伸び、腕も太く、また肩幅も広かった。ひげ面でもない。さらさらしたちょっと長めの髪は南シナ海から吹き付ける生温い風にそよぎ、蒸し暑さをこの人は感じないのではないかと思うほど涼しげに見えた。

まだ大学生だった僕は春休みの最中で、暇に飽かせて何の変哲もないサンホセにぶらぶらと泊まり続けていた。ミンドロ島の南端にある人口およそ10万人のこの町は、山岳民族であるマンギャン族が暮らすイグリット山への拠点となる。

マンギャン族はふんどしを締め、脇差しを腰にする伝統的慣習を持つ一風変わった人たちで、僕は、日本人のルーツとおぼしき彼らの暮らしぶりに好奇心をそそられ、マニラからバスと船を乗り継ぎここまでやって来たのだ。

僕はその日の朝、いつものようにこの町のメインストリートにある路上ハンバーガースタンドでミニハンバーガーを食べていた。

メインストリートといっても、食べ物や生活用品を売る小さな店が点在するただの乾いた道だ。乗り物が時折通過するたびに大きな砂煙が立ち、目や鼻の中まで飛んでくる。

小太りで厚化粧の地元のおばさんが突然、大きな声で僕に話しかけてきた。

「どこから来たの?」

「えっ、日本です」

「何をしているの?」

「えっ」

「私は日本人を知っている。まあ、ついて来なさい」

おばさんは、僕に有無を言わせず、ぱっぱっと先に歩きだした。

「どこに行くんですか」

「大学よ、カトリックの」

どういうわけか、おばさんは僕をカトリックの大学に連れて行くらしい。あまりに急な話の展開に一瞬とまどったが、素直についていくことにした。僕は早足でおばさんの後を追った。

埃っぽい道を15分ほど歩くと、日本の中学校のような造りの校舎が見えてきた。おばさんは校舎の3階まで素早く階段を上り、ドアが開けっぱなしになっている部屋を覗いた。

「ハロー、ファーザー・トニー」

「オー、ハロー」

「サンホセに日本人の学生がいたから、連れてきたわ。面倒見てやって」

2人の会話はタガログ語が主体だったので、僕は半分ぐらいしか理解できなかったが、おそらくこのようなやり取りを交わしたのだろう。おばさんは「バーイ」の一言を残し、人助けをしたという満足感をいっぱいにして帰っていった。

机に向かっていたファーザー・トニーは別段困った表情を見せるわけでもなく、読みふけっていたフィリピンの英字新聞をパタッと閉じ、棒立ちになっている僕を見上げると、「何かお困りですか」と質問した。

初対面のファーザー・トニーと僕はとりあえずお互いに自己紹介し、共通の話題を探した。

ファーザー・トニーは名古屋にある南山大学の哲学科を卒業後、修道会のひとつである神言会系の神学校に6年通い、晴れて神父となった。1年半ほど前から、ミンドロ島サンホセにあるデバイン・ワード・カレッジで奉仕していた。主な仕事は、勉強や進路、家庭の問題などで悩む生徒へのアドバイスで、この学校では、こうしたカウンセラーを「キャンパス・ミニスター」と呼んでいるという。ここはカレッジといっても、小学校から大学まで併設している。

僕は校内を案内してもらった。ファーザー・トニーが廊下を歩いていると、「ハロー、ファーザー」と引っ切りなしに声がかかる。国民の85%がカトリック教徒であるフィリピンでは、ファーザーは文字通り父親なのだ。大人から子供まで数多の信徒の相談相手になり、懺悔を聞いては告解を与える。洗礼、堅信、結婚など人生の節目にも神父の秘跡が必要で、毎週日曜日のミサでは数百人の信徒を前に説教しなければならない。

「ミサは仲間の神父で持ち回りだけど、一回担当すると有名人になるんだわ。悪いことは何もできんよ」

ファーザー・トニーは苦笑いした。

半径100メートルの円に中心部がすっぽり入るサンホセには、駐在員も留学生も旅行者もめったに来ない。日陰で寝そべる犬にまでジロジロ見られているような気さえするほど、外国人は珍しい存在なのだ。日本人はファーザー・トニーのほかに、サンホセを州都とする東ミンドロ州の知事(女性)の夫である佐藤さんと、日本食レストラン「プティ・ハウス」を経営する画家夫妻の3人だけ、と住人が教えてくれた。

サンホセのあるミンドロ島は、稲作、ヤシ栽培、漁業など第一次産業が中心である。ミンドロという名称は、スペイン語の「金山(Mina de Oro)」を語源とするが、実際のところ金は皆無で、大理石や銅、鉄鉱石が少々採れるにすぎない。

むしろトヨタの現地組立車の名前にもなっている『タマラウ(小型の水牛)』の生息地として有名だ。元陸軍少尉の小野田さんが1974年に「任務解除命令」を受けるまで太平洋戦争を独りで続けていたルバング島は、このすぐ北にある。

サンホセでただ一軒の日本食レストラン「プティ・ハウス」(白い家)を営む田中さん夫婦は2人とも画家だ。

主人の雅夫さんは武蔵野美術大学を出て、日本の製紙会社に十数年勤めていたが、ネクタイを締める毎日に嫌気がさして40歳にして脱サラ、2年ほど前に、フィリピンでも有数の未開の地ミンドロ島に腰を落ち着けた。レストラン経営は「どうにか食えるだけの手段」と割り切っており、週一度は必ず出かけるという写生が生きがいだ。店内の壁には、田植え姿などマンギャン族の行住坐臥を描いた水彩画が掛けられていた。

ファーザー・トニーと田中さん夫婦、僕の4人が食卓を囲むと、たいていはマンギャン族の話になった。ファーザー・トニーが珍しく日ごろの悩みを打ち明けた。

「フツーのフィリピン人は、山の中で生活しているマンギャンの子をバカにしたり、時には無視したりするんだわ。デバイン・ワード・カレッジでは敷地内に『マンギャン寮』を建て、数十人を無料で住まわせながら教育を受けさせとる。うちは私学だもんで学費も高いし、上流・中流階級の子弟がたくさんおるけど、ミリエンダ(おやつ)の時間などに貧富の差が露骨に出たりするんよ」

テーブルの上のカラマンシー(ライム)ジュースを一息に飲み干し咽を潤すと、「今晩7時から、学校でマンギャンの子らの演劇があるんですけど、一緒に来ませんか」と僕らを誘った。

田中さん夫婦はレストランの方もあるので、結局僕は独りで6時過ぎに学校へ行った。ファーザー・トニーのほか、ドイツ人やフィリピン人の神父らと油っぽいフィリピン・西洋折衷のような夕食を取った後、屋外体育館で上演された劇を観賞した。日本の中学校の文化祭のような稚拙な舞台だったが、子供たちは赤や緑の民族衣装を身にまとい、竹笛や鉄製の打楽器などを使って、狩猟や農耕で糧を得て、高床式住居で家畜とともに暮らす伝統的生活を再現。差別も、犯罪もない、物欲とは無縁の彼らが育った「桃源郷」を描いてみせた。現実の日々とを重ね合わせ「マンギャンは人間だ。動物ではない――」という切実なメッセージがそこには強く込められていた。

カトリックの神父たちは本当に逞しい。偏見や差別と格闘するために何のためらいもなく僻地に住み、命懸けで少数民族の人権尊重を叫ぶ。

そういえば、東南アジア最大のスラムといわれたマニラ市トンドのスモーキー・マウンテンにもカトリック教会が中腹に屹立し、ファーザー・ベン(ミンダナオ島出身)が貧困撲滅運動の中心となっていた。

堆積したごみの山が化学反応を起こして煙を出すことから命名されたスモーキー・マウンテンでは、毎朝7時からミサが始まる。中年以上の男女を中心に100~150人が集い、音の割れたエレキギターに合わせて大きな声で合唱し、互いに抱擁していた。教会の外では、ごみ山を裸足で駆け上る子供たち。

「スモーキー・マウンテンにはフィリピーノ・ホスピタリティが生きている。みんな幸せに暮らしている」

僕を泊めてくれた住人のひとりであるメンドーサさんはこう言って胸を張った。彼の家には、キリストの肖像画や「最後の晩餐」の風景が壁に掛けられ、フィリピン人がとりわけ好むセント・ニーニョ(子供のイエス・キリスト)の小さな像も数体、祭壇に所狭しと飾られている。

この地は、かつてはマグダラガット(タガログ語で漁師の意)と呼ばれた静かな漁村だった。1954年にごみ捨て場と化して以来、漁師たちは陸に上がりスカベンジャー(くず拾い)に転職。ダンプトラックが運んでくるがらくたに目を光らせ、プラスチックやボトルを掻き集めて1日60~200ペソ(1ペソは約3円)を稼ぐ日々が続いていた。

教会のフィリピン政府への働きかけが功を奏し、かつてのごみ捨て場は今(1995年ごろ)や商業・住宅地区に変貌しつつある。彼らの住居も、焦げ茶色の板切れとトタンを無造作に張り付けたバラックから、コンクリ造りの中層アパートに移ったという。

「We can because we think we can(信じていれば、実現できる)」

メンドーサさんのTシャツにはこうプリントされている。神父の情熱が、「ごみは宝」と自暴自棄になっていた住民に曙光をもたらしたのだ。(続く