京大生の休学物語、ミャンマーに飛び込んだから一気に開けた人生!

イタリアの映画祭で受賞した賞状を掲げる製作スタッフ(左から2人目が筆者)イタリアの映画祭で受賞した賞状を掲げる製作スタッフ(左から2人目が筆者)

「リアルなミャンマーをきみに見せてやろう」。笑顔を振りまく男女2人組が突然、ミャンマー・ヤンゴンの公園で私に声をかけてきた。じりじりと太陽が照り付ける2018年4月2日の昼前のこと。ミャンマーに着いてまだ2日目のことだった。

■スラムでぼったくりにあう

京都大学で3年生を終えたばかりの私がヤンゴンに降り立ったのは、元日経新聞記者が代表を務める「ヤンゴン編集プロダクション」で記者インターンをするためだ。ここで私は、ドキュメンタリーの名作でも撮ってやろうと意気込んでいた。

初出勤そうそう、代表から「何かネタを探して記事を書くように」と指示を受けた。私はワクワクしながら昼前の街中に飛び出した。当たり障りのない街頭インタビューでもしようかなと公園をうろついていたところ、観光案内をしてあげるよと近づいてきたのが冒頭の2人だ。これは記事になる、と思って私は2人についていった。

2人は私を、ヤンゴン中心部の対岸にある「ダラ地区」に連れて行った。小さな木の船に乗せ、ヤンゴン川を渡る。

ダラ地区は、高層ビルがいたるところで建設中の中心部とは別世界だ。竹や木で建てた平屋ばかり。私は生まれて初めて、「経済格差」を目の当たりにした。

「ツナミビレッジを見ていきなよ」。2人はこう言って、三輪タクシー(サイカー)に一緒に乗り込んだ。とっておきの場所に連れて行ってくれるらしい。穴やぬかるみだらけの道をしばらく走ると、掘っ立て小屋が並ぶ荒れ地の中の集落に着いた。

「ツナミというのは、2008年にヤンゴンに上陸したサイクロン・ナルギスのことだ。被災した人たちがここに集まって住んでいる」と男性が解説する。ここが「リアルなミャンマー」ツアーの見せ場らしい。2人は世にいう「スラムツーリズム」のガイドだった。

私は危機感を覚え始めた。2人がちらちらとお金の話をし始めたからだ。ダラに向かう途中、男性のガイドは「このツアーはもちろんフリーだ」と繰り返し言っていた。しかしツナミビレッジの貧しい様子を案内して回りながら、女性のガイドは「コメを買って村人に寄付してあげてよ」「ここに来る外国人はみんな寄付していく」などと話しかけてくる。

お金を請求されるのではないかという私の予感は的中した。「三輪タクシー代、5万チャット(約3500円)ね」。30~40分のドライブにしては高すぎる。ヤンゴン市内のタクシーでは1万チャット(約700円)もかからない。だが男性のガイドが「金がないならATMに行けよ」と突然冷淡になったので、小心者の私は多少ごねたものの払って、そそくさと帰った。

いわゆる「ぼったくり」だ。後で、在ミャンマー日本大使館のホームページを開くと「ダラ地区観光におけるボッタクリ被害について」という注意喚起が出ていた。

私はしばらくの間、むしゃくしゃしていた。だが次第に疑問が湧いてきた。彼らはなぜ、嫌われ者のガイドを生業にしているのだろう‥‥。ドキュメンタリーのテーマが決まった。私はカメラを持って再びガイドに会いに行った。

■ガイドは無国籍だった

「私たちは国民証をもっていないのよ」。そう話してくれたのは2人組のうちの女性とその母だ。早い話、無国籍。公職はもちろん、なかなか会社に雇ってもらえない。土地も所有できない。このため空いた土地を不法占拠して住むしかない。これが現実だ。

国籍がない理由を私は聞いてみた。「申請に必要な書類はどこかにいってしまった」。これに追い打ちをかけるのが、彼女の一家はイスラム教徒だということ。ミャンマーでは、申請を受け付ける役人が、イスラム教徒らマイノリティーに対して賄賂を要求することは公然の秘密として語られている。

ただ、だからといってガイドに同情し、ぼったくりも仕方ないかなと結論付けるのは早計だ。

ガイドは、ミャンマーの相場に慣れていない外国人から高額の収入を得られる「おいしい」仕事といわれる。ときには恐喝にも発展する。2017年には、ダラの男性5人が外国人観光客に対する詐欺、暴行の罪で逮捕される事件が起きた。「一部のガイドは外国人に、村のためと言ってコメを買わせ、その一部を横領していた」とツナミビレッジの住民も顔をしかめる。

21歳まで日本の温室で育った私にとって、ガイドを取り巻く現状は簡単に飲み込めるものではなかった。観光客やミャンマーの知識人らを取材してはガイドに共感したり、反感をもったりと、頭と気持ちの整理で忙しい日々が続く。

ダラのガイドを悪とみるのか、ミャンマーの社会経済が生み出した必然的な結果とみるのか、それとも「外国人料金」を請求しているだけのまっとうな職業とみるのか――。私は悩んだ。だがガイドの声は世間や外国人観光客にまったく届いていないのが現実。だとすれば私にできるのは、ガイドを取材し、その内容を伝えることではないかと割り切った。

取材を受けてくれた人や、取材や編集の過程で相談に乗ってくれた多くのミャンマー人と日本人のおかげで完成したのが、一本の短編ドキュメンタリー映画。タイトルは「ウェルカム・トゥ・ツナミヴィレッジ」。

私自身が画面に登場するスタイルだ。自分がツナミビレッジに疑問をもった経緯から語り始め、私がいろんな人に取材に行く過程も撮った。最初は抵抗があったが、ガイドとの向き合い方に悩む私の心中をそのまま語るにはもっとも効果的だった。

■第2次大戦は反省すべき歴史?

2018年9月からは、クラウドファンディングで資金を募って2本目のドキュメンタリー映画を撮った。第2次世界大戦当時のミャンマーを追う、という内容だ。ミャンマーの若手映画人らと共同制作した。

この作品の特徴は、私だけでなくミャンマー人の若者も歴史を追う旅のメンバーとして登場する点だ。第2次大戦は、日本人にとっては侵攻と敗戦の時代だが、ミャンマー人にとっては英国や日本の支配から脱した独立の時代だ。

取材に入る前の企画会議でミャンマーサイドの歴史観を聞いてみると「ミャンマーは英国の植民地支配を脱するために日本と手を組み、その後日本もタイミングよく追い出した」という答えが返ってきた。私が無意識に抱いていた“反省すべき歴史”としての大戦のイメージとはまったく異なるもので、彼らとの取材や会議はいつも新鮮だった。

ヤンゴンをはじめ、カレン州、モン州、マンダレー地方などを回り、およそ20人の高齢の大戦経験者を取材した。「敗走する日本人を助けた」「日本人の支配は恐ろしかった」など、多様な証言が集まった。

取材は私と2人のミャンマー人で行い、取材のたびに自分たちの感想をシェアして映像に収めた。最後の証言者の記録として、そして過去と未来を若者がつなぐ橋として、「アンセスターズ・メモリーズ」という中編のドキュメンタリーに仕上げた。

■世界の映画祭で受賞ラッシュ

2本のドキュメンタリー映画を撮り終わった私は2018年12月末、日本に帰った。自分の作品が世間にどう評価されるのか。正直、期待よりも不安が大きかった。

だが映画祭に出すと「ウェルカム・トゥ・ツナミヴィレッジ」は福岡、インド、米国など4カ国、5つの映画祭で受賞。「アンセスターズ・メモリーズ」は、ロサンゼルス映画賞やロンドン・インデペンデント映画賞など9カ国、15の映画祭で受賞した。

1作目が上映されたバングラデシュの映画祭には予定をやりくりして参加した。南アジアや中東から招待された監督たちの作品も見た。

映画祭の主催者であるバングラデシュ人は「日本では知られていないと思うけど、この国には世界に誇る監督がたくさんいる」と誇らしげ。インド人の監督は「俺たちはボリウッドのダンス映画とは違う新しい映画を作っていく」と熱っぽく語っていた。

彼らとはバングラデシュ滞在中の3日3晩寝食をともにし、話題は始終映画だった。ミャンマーに飛び込んでいなければ決して得られなかったであろう一生の宝物だ。

さまざまな映画祭に呼ばれてスクリーンに映る自分の作品を見ていると、ミャンマーでのある一日を思い出す。

「ウェルカム・トゥ・ツナミヴィレッジ」の編集も一段落し、アンセスターズ・メモリーズの撮影に奔走していたころ、ガイドの2人に初めて声をかけられたヤンゴンの公園で、女性のガイドと偶然再会したのだ。

彼女は「最近は元気か」と笑顔で話しかけてくる。雨季に入ってダラに渡る観光客も減り、公園で絵葉書を売っているとのことだ。お腹には赤ちゃんがいた。

ダラには現在、開発の波が押し寄せている。私が滞在していた2018年、ヤンゴンからダラに向かうには船で川を渡らなければならなかったが、2019年9月に上映会のために再訪した際には両岸を結ぶ橋の工事が始まっていた。ガイドの2人が住んでいたダラも地価が上昇しているという。この開発が彼ら、そして新しく生まれてくる子どもの生活にどのような影響を及ぼすか、日本に帰ってきた今も気がかりだ。

私は4月から、東京の新聞社で記者として働く。今後も未知の世界で生きる人たちの思いを聞き続けたい。世界は広すぎて次の目的地なんて決められないが、たとえば中国の権威主義体制の下で生きる人たちや米国のトランプ支持者の中にどっぷり漬かって取材したい、などと夢を膨らませている。