【あるミャンマー政治犯の1年(前編)】仲間が殺されたから僕は国民防衛軍に入った

タイ・プーケットのパトンビーチで1年前を振り返るジンココ。深夜1時、波音だけが聞こえるタイ・プーケットのパトンビーチで1年前を振り返るジンココ。深夜1時、波音だけが聞こえる

ミャンマーでクーデターが起きてから1年超。国軍はおよそ1500人の市民を殺し、9000人以上を今も拘束しているとされる。このクーデターで人生を大きく狂わされたのが、タイのプーケットでタトゥーデザイナーとして働くミャンマー人男性のジンココだ。29歳。コロナ禍による失業、軍に対抗するデモ、2週間にわたる拷問、200キロメートルを歩いての国外脱出――。ひとりの男がクーデターに翻弄された激動の1年を2回にわたってお届けする。

出稼ぎマネーで家を買う

ジンココはミャンマーの最大都市ヤンゴンで両親と3人の幼い弟の6人家族の中で育った。

父はジンココが幼いころ、電気技師として会社で働いていた。だが仕事はうまくいかず、解雇される。収入源を失った一家は借家からも追い出され、知り合いの家を泊り歩く生活が続いた。泊る場所がないときは、近くのサッカー場で一夜を過ごしたこともあったという。

家計の苦しさからジンココの両親も不仲になっていく。夫婦げんかは絶えず、サフラン革命(仏教徒が先頭に立って国軍に抗議したデモ)が起きた2007年、ついに両親は離婚することに。貧しい家庭で、親は離婚。家には3人の幼い弟がいる。

「このままでは家族全員、野垂れ死にしてしまう。自分が働いて稼がないと」

こう思ったジンココは高校を卒業した2010年、仕事を求めてタイに渡った。この年は奇しくも、新憲法に基づく総選挙が実施された年。ジンココは少しずつ民主化するミャンマーを尻目に、世界有数の観光地プーケットに向かった。

ジンココはプーケットでウエイターをしたり、店で携帯電話を売ったりしながらタイ語を学んでいく。2014年にはパスポートとタイの労働許可証を取得。知り合いのつてで、タトゥーショップのデザイナーの職を得た。ジンココは英語とタイ語を使いこなし、顧客の要望に沿ったデザインを提案。これにより西洋人観光客やタイ人のタトゥーアーティストからすぐ認められるようになったという。

だが働くのはすべて家族のため。生活費を除くほとんどの収入をミャンマーの家族に送金した。この努力が実ったのは2019年。ジンココはヤンゴンに一家全員が住める家を240万チャット(約15万円)で購入したのだ。両親は離婚したままだが、ジンココが家族のために買った家ということで、両親含め家族5人がひとつ屋根の下で暮らすようになった。

家族団らんの日々が一変

仕事も軌道に乗ってきた2020年、ジンココの生活を大きく変える出来事が起きた。新型コロナウイルスの世界的蔓延だ。タイ政府は国境を閉鎖。観光客でにぎわっていたプーケットのパトンビーチも人っ子ひとりいなくなった。その結果、ジンココも収入を失った。

「観光客が来なければ仕事がない。仕事がなくてはプーケットにいる意味がない。家族に会いたい」

こう思ったジンココは2020年10月、9年ぶりにミャンマーに帰国した。住むのはもちろん、ヤンゴンで自分が買った家だ。パンデミック下で生活は苦しかったが、9年ぶりの一家団らんの日々。ジンココはささやかな幸せをかみしめていた。

もうひとつ嬉しかったことがある。それは2020年11月に実施されたミャンマーの議会選挙で投票できたことだ。軍政の時代に生まれ育ち、長らくタイで働いていたジンココにとっては初めての選挙。投票したのは、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)だ。

「長く離れた祖国だったけど、ずっと心の中にあった。投票してミャンマーの国民に戻れた気がした」

だがジンココの幸せな日々は数カ月で崩れ去った。ある朝、ジンココが起きると、父が朝食を作って待っていた。テーブルに座ったジンココに父はこう告げた。

「国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチーを拘束した。すべては奪われた」 

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