ミャンマー国軍に奪われた民主主義を取り戻すため武器を手に取ったヤンゴン出身の男性、ジンココ(29)。彼を待ち受けていたのは、国軍による恐ろしい拷問だった。目を隠され、口を塞がれ、1日中暴行を受ける。全身傷だらけの中、それでもジンココは「ミャンマーが民主化される未来」を諦めない。「あるミャンマー政治犯の1年」の後編。(前編はこちら)
地獄のインセイン刑務所
軍政に抗議するデモが始まって以降、友人の家を転々としながら身を隠していたジンココはある時、両親の勧めで、ヤンゴンの実家に数日帰ることにした。だがその“小休止”が大きな仇となった。
5月19日の深夜12時、軍と警察が突然、ジンココの家のドアを壊し、中に入ってきた。屋上に隠してあった武器やポスター、ヘルメットなどを確認すると、机やいす、棚など家にあるあらゆるものを破壊。その後、ジンココと弟を逮捕し、家の近くにあるユザナ・ガーデン・シティの警察署に連行した。
警察はジンココの携帯電話を没収。「仲間はどこだ?」「どこで活動している?」と尋問する。ジンココは一切答えない。それを見た警察は殴る蹴るの暴行を加えていく。拷問は2時間おきに続き、深夜にまで及んだ。ジンココは深く眠れず、少しずつ弱っていった。
それでも口を割らないジンココは1週間後、ヤンゴン北部にあり、悪名高いシュエピタ尋問センターに移送される。尋問センターとは国軍の諜報局があるところで、ミャンマー全土の都市にある。ほとんどの政治犯がこの尋問センターに送られるという。
ここで待っていたのは、さらなる恐怖だった。目隠しをされ、背中の後ろで手錠をはめられ、ひざまづかされる。そのうえ濡れた服のような布切れで顔をおおわれ、口を塞がれる。
「目隠しされた状態で予告もなく口を塞がれると、人は混乱する」(ジンココ)
もっと恐ろしかったのは拷問する軍人が酔っぱらっていたり、ヤーバーと呼ばれる覚せい剤をやっていたことだ。狂った人間は何をするかわからない。もしここで殺されても、新型コロナなどを理由にしてうやむやにされてしまうだけ。ジンココは毎日生きた心地がしなかった。
国軍の質問は、国軍に対抗して一般市民が武装した国民防衛軍(PDF)に関するものばかりだった。
「PDFの仲間はどこに潜伏している?」「PDFの資金源はなんだ?」「PDFの兵士は何人いるんだ?」
拷問と尋問が繰り返されたが、ジンココは沈黙を貫いた。
「デモの仲間は10~20代の学生たち。自分にとっては弟や妹のようなもの。このような恐ろしい拷問を彼らが受けるようなことがあってはならない」
頑なに口をつぐむジンココに業を煮やしたのか、軍人はジンココに電気ショックを与え、ジンココは意識を失った。気づいたときは、ヤンゴン北部のインセイン刑務所にいた。ここは、アウンサンスーチーや1988年に起きた民主化運動のリーダーであるミンコーナインなど、数多くの政治犯を収容してきた場所。ジンココがインセイン刑務所にたどり着いた時、拘束からすでに2週間が経っていた。
何も言えないまま懲役刑
インセイン刑務所に運ばれて良かったことがある。それは市民不服従運動(CDM=軍政に抵抗するため、公務員などが職務をボイコットする運動)に参加していた医者が、同じ部屋に収容されていたことだ。顔は晴れ上がり、全身あざだらけだったジンココだったが、その医者の手厚い看病を受け、少しずつ回復。半月後には普通に生活できるまでになった。
だが回復したジンココを待っていたのは軍法裁判だった。非合法結社法違反の罪で起訴されたのだ。
驚いたのは、裁判に弁護士もいなければ傍聴人もいなかったことだ。ただ警察側が調書を読み上げるだけ。「裁判で発言することすら許されない。ミャンマーには正義も人権も一切ない」(ジンココ)
ジンココには、イエスやノーすら言う機会が与えられないまま、懲役3年の実刑判決が言い渡された。
インセイン刑務所での生活は苦しかった。食事は朝の9時半と昼過ぎの3時半の1日2回。「ほとんどはコメや豆。それも生煮えでとても食べられるものではなかった」(ジンココ)
刑務所での仕事はトイレの汚物を外に出したり、重い食事を運ぶこと。こんな生活があと3年も続くと考えると、目の前が真っ暗になった。
唯一の助けは2週間に1回だけ許される家族との面会だ。ジンココはその時だけ心を落ち着かせることができた。家族は面会の際に毛布や、長持ちする食べ物を届けてくれる。苦しい刑務所暮らしの中、今度は家族がジンココを支えていた。