【あるミャンマー政治犯の1年(前編)】仲間が殺されたから僕は国民防衛軍に入った

タイ・プーケットのパトンビーチで1年前を振り返るジンココ。深夜1時、波音だけが聞こえるタイ・プーケットのパトンビーチで1年前を振り返るジンココ。深夜1時、波音だけが聞こえる

クーデターにアートで対抗

ミャンマーで2021年の2月1日、クーデターが起きた。国内の電話やインターネットはストップ。自転車でフードデリバリーをしていたジンココは仕事を失った。だがそれ以上につらかったのは、投票で選んだ自分たちのリーダーが拘束されたこと。国民の意志が否定され、民主主義が奪われた。

「公正な選挙で、アウンサンスーチー率いるNLDが国民から選ばれた。国軍がそれを否定するのは完全に間違っている」

こう強く思ったジンココはクーデターから1週間後の2月7日、友人たちと一緒にデモを始めた。朝の10時から夕方4時まで、家からさほど遠くないスーレーパゴダ(仏塔)や米国大使館の前で反クーデターの声を上げた。

その時に出会ったのが、教師のモーだ。モーは、公務員などが職務をボイコットする「市民不服従運動(CDM)」に参加していた。ジンココとモーは日中は路上でデモをし、夜は誰かの家にこもって次の日のデモの内容を考えた。2人はいつしかデモ隊のリーダーになっていた。

ジンココはタトゥーデザイナーだった経験を生かし、ポスターを作った。アウンサンスーチーの解放や軍政への反対、また民主主義の回復を要求するデザインだ。このポスターを他のデモ隊ともシェアして、日中の抗議デモに利用した。ヤンゴンの路上に書かれた「WE WANT DEMOCRACY」(われわれは民主主義がほしい)のペイントメッセージは、ジンココがデザインしたものだ。

だがデモが始まって1週間後、国軍はデモ隊の弾圧に乗り出す。軍政に反対する市民に向かって催涙弾を放ち、こん棒で殴打する。時には銃口までも向けた。ジンココたちは危険が差し迫る中、諦めずにゲリラ的なデモを繰り返した。

血まみれになる同志

3月29日、悲劇が起きた。その日もデモをしていたジンココたちのグループを警察が待ち構えていたのだ。デモ隊は散らばってビルや木陰に隠れたが、モーが捕まってしまう。

長銃で何度も殴られ意識を失うモー。全身血だらけになり、ひとりで歩くこともできないまま、警察に連行されていった。

ジンココは物陰に隠れて九死に一生を得た。だがモーを助けられなかった後悔が今もあるという。

「警察に取り囲まれて身動きが取れず、モーが暴行されるのを見届けることしかできなかった。自分が情けない」

2日後、ジンココはモーが入院していると電話を受け、病院に駆けつけた。モーは意識がなく、腎臓が両方とも破裂していた。救うには手術が必要。ジンココたちはお金を集めると同時に、仲間がかわるがわる輸血用の血を提供した。だがその努力もむなしく、手術をする前にモーは息を引き取った。

「平和的なデモをしていても、国軍は関係なしに殺しに来る。俺たちも銃をもって戦わなければならない」

こう決意したジンココは、ミャンマー北東部のカチン州をベースとするカチン族の民族武装組織「カチン独立軍(KIA)」のところに行き、国軍と戦うための訓練を受けた。ファーストエイド(応急措置)から銃の撃ち方まで、初めて学ぶことばかりだった。

このころ若者たちはアウンサンスーチー氏が唱える非暴力、不服従に限界を感じていた。その多くが少数民族の武装組織に入隊し、訓練を受けた。彼らは国民防衛軍(PDF)と呼ばれ、弾圧される市民を守り、国軍をゲリラ的に攻撃する。ジンココはこのPDFに入隊した若者の先駆けだった。

ヤンゴンに戻ったジンココたちのデモ活動は過激になっていく。タイヤに火をつけバリケードを作ったり、火炎瓶を投げつけたり、ゴム銃で攻撃したりもした。

そんなジンココたちに国軍は容赦なく発砲した。ジンココたちはヘルメットや大きなシールドを準備するものの、武力に勝る国軍はデモ隊を追い込んでいく。ジンココの友人はひとり、またひとりと撃たれ、倒れていく。遺体を回収することもできなかった。(続く

ジンココがデザインした「WE WANT DEMOCRACY」の文字を路上に書き、その上でキャンドルを灯して反軍政のデモをする

ジンココがデザインした「WE WANT DEMOCRACY」の文字を路上に書き、その上でキャンドルを灯して反軍政のデモをする(ミャンマー・ヤンゴン)

ジンココがデザインしたポスターを持ってデモをする若者たち(ミャンマー・ヤンゴン)

ジンココがデザインしたポスターを持ってデモをする若者たち(ミャンマー・ヤンゴン)

ジンココたちが抗議デモで国軍に対して使った手製のゴム銃と矢

ジンココたちが抗議デモで国軍に対して使った手製のゴム銃と矢

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