
新たな人生への転機
悶々としていたテインさんの背中を強く押す出来事が起きる。2024年2月10日、ミャンマー軍政は国民に対する強制徴兵を可能とする「人民兵役法」の施行を発表。徴兵対象者のリストが国内で出回り、その中にテインさんの名前が含まれていたのだ。
「国軍を許せない気持ちがあったので、徴兵命令に従う選択肢はなかった。徴兵を避けるために周囲の若者たちが次々と国を離れていくのを見て、自分も国外に出る決心をした。家族の中では父が一番理解してくれた」
ミャンマーには国外脱出のニーズに応えるエージェントがいくつもいる。テインさんのケースでは約250万チャット(約10万円)を払えば国外脱出を手配してくれる。その額は、当時のテインさんの約4カ月分の給料に相当した。
ミャンマー北東部のタチレイからタイ側のメーサイに越境する際、エージェントの手引きで同行したのは13人。森の中や橋のない川を渡るケースもある中、テインさんは1日で難なく抜け出せた。チェンマイへは翌日、バスで移動。チェンマイ大学に留学していた2人のいとこと合流する。26歳と32歳のいとこは留学の名目ではあるものの、実質はテインさんと同様に徴兵から逃れるために避難してきていた。
テインさんのゼロからの出発が始まった。避難先のチェンマイで生活の糧を得ようにもテインさんはタイ語が話せないから不利な状況にある。また滞在ステータスの問題もある。
テインさんはインターネットを使って職探しをし、ヘイトスピーチの実態を調査するプロジェクト「Speech Matters」でウェブサイトのデザインや動画の編集の仕事を見つけた。この仕事が自分が本当にやりたかったことだと気付いたという。
「デザインと世界を良くすることがつながるなんて、今まで考えたこともなかった。生活のための現実と自分の夢は区別しなければならないと考えていた。でもそれは行動を起こさない自分への言い訳だった。国境を越えて新しい人生を始めることになったが、大事なのは“自分の中の国境”を超えることだった」(テインさん)
Speech Mattersは、カナダのNGO「Search For Common Ground(SFCG)」が資金を出して始まった期間限定のプロジェクトで、今は終わった。
試練を乗り越える力
約1年間従事したプロジェクトが終了した今、テインさんはグラフィックデザインの仕事を探している。チェンマイからリモートで働ける職場を世界中から見つけようとしている。
2カ月で100件を超える募集に手を挙げ、面接までたどり着いたのが8件。未だに仕事が見つからない。けれどもテインさんの表情は晴れやかだ。
「新たな人生を求めて実際に一歩を踏み出すのは難しい。僕の場合はやむにやまれない理由があったけれど、結果的に勇気を出して国境を越え、また1年のデザイン経験も積めた。自分は夢を実現できると信じている」
テインさんは自分の将来像について「いつかは日本で働きたい。タイ語よりも日本語を使う未来を僕は考えている。日本語の勉強を2年続け、日本語能力試験N3資格(新聞の簡単な記事を読んだり日常会話ができるレベル)もとった。グラフィックデザインだけでなくUI/UXデザインもやってみたいので、その勉強も始めた」。
ただ徴兵から逃れたテインさんの場合、パスポートを発行してもらえない現実があるため、軍政が崩壊しない限り日本に渡航できない。「10年、いや5年で軍政が終わると信じたい。もちろん不安はあるけれど、夢に向かって歩いていれば人生は楽しめる」。テイ ンさんの目には将来の自分の姿が鮮明に見えている。

テインさんが就活で使うポートフォリオの一部。2カ月にわたって1日1件以上のペースで応募しているが、仕事はまだ見つからない。にもかかわらずテインさんは笑顔を絶やさない