ミャンマー人の元技能実習生「もう溶接なんてしたくない」、帰国後に役立つスキルは日本語!

ミャンマー・ヤンゴンには個人経営の小さな店が立ち並ぶ個人経営の小さな店が立ち並ぶミャンマー・ヤンゴン。だがアセアン最後のフロンティアとして、日本企業の進出熱は依然として高い

「日本で技術は習得できなかった」。これは、2008年から約3年間、溶接を学ぶために技能実習生として日本に滞在したミャンマー人男性アウンリンウーさん(仮名、32歳)の言葉だ。帰国後は溶接の仕事に就かず、日本語の通訳として働く。日本で学んだ技術を途上国で役立ててもらうことを目的とする「外国人技能実習制度」だが、実際は日本語を生かして働く人が少なくない。

■職種は何でもよかった

アウンリンウーさんはヤンゴン出身の独身男性。高校を卒業した後は、車のブレーキ修理の仕事をしていた。

そんなアウンリンウーさんが日本で働くきっかけとなったのは、日本の外国人技能実習制度を知ったこと。「親やきょうだいのために、とにかく家族のために稼ぎたかったから」と当時の心境を語る。

アウンリンウーさんは、ヤンゴンにある、技能実習生の送り出し機関に入って、日本語を学び始めた。しばらくして、愛知県にある自動車部品工場で働くことが決まった。職種は「溶接」だった。

ところがアウンリンウーさんに溶接の経験はない。興味もなかったという。「部品工場を経営する社長からは『溶接はできなくてもいい。日本に来てから教える』と言われた。職種は選べなかった。日本に行って稼げればどんな職種でも良かった」と話す。

■手取りは9万円

アウンリンウーさんが日本にやってきたのは、死者10万人以上を出したサイクロン「ナルギス」がヤンゴンに上陸する少し前の2008年3月。愛知の工場では、本来の実習内容である溶接をする機会はあまりなかったという。溶接の仕事は日本人で間に合っていたからだ。代わりに金属プレス加工をした。部品工場の関連会社で、ごみをリサイクルする仕事もした。「会社にやりないさいと言われたことは何でもやらなければならなかった」と振り返る。

日本で3年間働くためには、来日して1年以内に、都道府県が実施する職種別の技能検定に合格しなければならない。普段は溶接以外の仕事を任されていたアウンリンウーさんだが、人手不足の補填として外国人を必要とする会社側は、なんとか溶接の実技試験に合格し、継続して働いてもらいたかった。

試験の1週間前、アウンリンウーさんは上司から「もうすぐ試験だから練習しないといけないよ」と言われた。1日1~2時間、仕事の合間に溶接の練習をした。1回目の試験は不合格。1週間後の再試験でなんとか合格した。

日本での仕事は嫌でなかったという。勤務時間は朝8時から夕方5時まで。休憩を挟んでの8時間労働。残業はほとんどなかった。給料は家賃などを差し引いて、1カ月の手取りで9万円だった。「作業中に転んでけがをしても、日本人の社員が駆けつけてすぐに手当をしてくれた。優しかった」と話す。

■日本語スキルで収入激増

アウンリンウーさんは今、ヤンゴンで、ミャンマーのビジネス・教育の情報発信や運転手付きレンタカー事業を手がける会社で働く。社長は日本人だ。この会社は新規事業として、ヤンゴンでバーを開くために準備中。アウンリンウーさんは、店舗の設計や施工を発注する地元の業者とやりとりする際に、日本語とビルマ語の通訳を担当する。

月給は40万チャット(約3万円)だ。車のブレーキ修理をしていた時の日給4000チャット(現在のレートで約300円)と比べると、収入は格段に増えた。「日本に行く前より給料が高くなったし、日本人の会社で働けるのは嬉しい。日本に行って良かった。日本語も学べたから」と話す。

帰国後に溶接の仕事に就くつもりはなかったのか。アウンリンウーさんは「日本では溶接の技術をちゃんと習得できなかった。たまに溶接もしたけど、遮光メガネをつけても夜中まで目の痛みが続いた。もうやりたくない。帰国してから溶接の仕事に就こうとはまったく思わなかった」と語る。

そもそもミャンマーにある溶接の仕事は、アウンリンウーさんによると、どこもミャンマー人による個人経営の小さな工場ばかりだという。日本語を話すだけでなく、読めもするアウンリンウーさんにとっては日本語のスキルを生かす仕事に就いた方が断然収入が多い。

■日本にまた行きたい

通訳の仕事で満足げなアウンリンウーさんだが、実はここに落ち着くまで紆余曲折があった。帰国後は、日本で貯めたお金で中古車を買い、ヤンゴンでタクシー運転手になった。2013年、客として偶然乗り込んだ日本人が今の会社の社長だ。日本語を操ることができるアウンリンウーさんを見て、会社に誘った。だが3カ月で一度は辞め、再びタクシー運転手に戻る。

今度は2015年から1年間、ヤンゴンにある送り出し機関に勤めた。業務内容は、技能実習候補生の視察や面接のためにヤンゴンを訪れる日本企業の社員のお世話だ。日本で上達した日本語や、タクシー運転手として働いた経験を生かし、車でヤンゴン市内を観光案内した。その後、タクシー運転手、船乗り、送り出し機関と同じ職を転々とし、通訳になった。

アウンリンウーさんは最後に言った。「この先も今の会社で働き続けたい気持ちはある。だけど日本で溶接以外の仕事ができるなら、もう一度日本に行きたい」