
放浪の旅へ
医学部2年生のとき、林氏が自分と向き合うことになる事件が起きた。
日本全土で学生闘争が荒れ狂った1970年前後、愛媛大学でも大学改革を求めて紛争が激化していた。
そんな中、林氏の弟分ともいえる後輩が、小競り合いの最中に顔を殴られ、倒れた。顎の骨にヒビが入っていたことが後でわかった。その場にいた林氏は後輩を救うどころか、相手に立ち向かうことすらできなかった自分にショックを受けた。情けなかった。
不甲斐なさに打ちひしがれた林氏は旅に出た。目指したのは京都。幕末の吉田松陰や高杉晋作らを描いた『世に棲む日々』(司馬遼太郎)を愛読していた。かつての長州藩士たちが山口県の萩から京都へ向かった足跡をたどって歩き出した。初めは3日で帰ろうと思った。だが歩くうちに力がみなぎってきた。
夜は野宿。駅で寝たこともあった。トラック運転手から「乗っていきなよ」と声をかけられても、「歩くから」と断った。
途中から同じような旅をする青年と出会う。一緒に食堂へ行って残飯をもらったことも。歩き続けて京都に到達したのはおよそ1カ月後だった。
「突飛だったかもしれない。でも自分から行動しないと何も得られない。この旅で、生きている実感がわいた」と林氏。自分で生きていけると自信がついた。
京都に着いた後は、賄い付きの旅館で働く。稼いだお金で秋田行きの電車の切符を買い、友人に会いに行った。愛媛の下宿へ戻ったころには、内気で弱い自分ではなくなっていた。
タイの田舎に救われた
そんな林青年が、次に向かったのがインドだった。1970年代はベトナム戦争への反戦とヒッピー文化の影響でインドへ行くのが欧米ではムーブメントになっていた。大学6年生の林氏も何かを探し求めてバックパックを背負い、インドへ旅立った。
いきなり、デリーでスリに遭った。無一文になってコルカタやバラナシの道端で寝袋に入って寝ていると、インド人から「チープ チープ ジャパニーズ トラベラー(貧乏な日本人旅行客)」と指さされた。下痢で困っている日本人バックパッカーに薬をあげたら自分が下痢になったときの薬がなかったことも。インドは刺激的だったがハードすぎた。その後に行ったタイは好きになった。
2度目のタイ旅で、カンボジアとの国境にある町アランヤプラテートへ行ったときのこと。近くの村に着いた林氏の視界には驚きの光景が広がっていた。
ゆったりと時を過ごす村人、ウシ、ロバ‥‥。高床式の簡素な家の庭にたわわに実るマンゴー。雨季には水たまりから水と一緒に魚があふれて生け垣にかけた網に自然とかかる。子どもたちの笑顔もある。
むっとする湿気を含んだ空の下で、自然とともに穏やかに暮らす人びと。彼らと一緒にいるうちに、林氏の強ばった心が解きほぐされていく。
「こんなところがあるのか。ここで生きてみたい」と心が叫ぶ。林氏の次への道標が見えてきた。(続く)