【ガーナNOW!女子大生は見た(5)】「ボク紛争」を考える、知れば知るほど複雑さに打ちのめされる

1130ガーナphoto国連大学アフリカ自然資源研究所の草苅康子研究員

世界では紛争が絶えない。その要因は、本当は複雑なのに、一般のメディアはいとも簡単に「政治や宗教などのイデオロギーが背景にある」と報道する。このことに私はいつも違和感を覚えていた。ガーナに来て、いろんな人と話し、いろんな問題をメディアのフィルターを通さずに見るうちに、私は“わかりにくい紛争”に興味をもった。今回は、私がこの国で見聞きした「現実的な問題から発生するガーナ北部の紛争」について考えてみたい。

■チーフの座をめぐって衝突

「アフリカ民主主義のお手本」「平和の象徴」などと国際社会から賞賛されるガーナ。サブサハラ(サハラ砂漠以南)アフリカで、欧州の旧宗主国から最初に独立(1957年)を果たしたのもガーナだ。アフリカでは比較的安定していると思うけれど、現実はそれほどでもない。

その証拠に、北部3州(ノーザン、アッパーイースト、アッパーウェスト)などではたびたび紛争は起こっている。西アフリカ平和構築ネットワーク(WANEP)によると、1980~2002年の22年間で、北部では少なくとも23件の紛争があった。ひとつの紛争で死者は2~3人のときもあれば、数十人出ることもある。

紛争は大きく分けて、「同じ民族同士のもの」と「異なる民族間のもの」の2つのタイプがある。同じ民族の場合、よくあるのは首長(チーフ)の座をめぐる抗争だ。

ガーナをはじめアフリカ諸国では、村や地区ごとに、チーフと呼ばれる権力者が君臨している。チーフはその村・地区で絶対的な権力と名誉を手にできる。もっといえば、土地や水、鉱物などの資源を得られるし、村人を労働力として使うことも可能だ。こうしたメリットの大きさから、チーフになりたがる人やチーフに近づきたがる人も少なくない。こうした「欲」が紛争の種のひとつになる。

異なる民族間の紛争はどうか。早朝・夜間外出禁止令が2011年まで出ていたアッパーイースト州ボク地区の場合、クサシとマンプルシという2つの民族が対立。「ボクはわれわれの土地だ」とともに主張し、帰属権を争ってきた。事態をややこしくさせているのは、この地域の少数民族(モシ、ハウサ、ダゴンバ、ビモバ、ビサなど)がクサシ、マンプルシいずれかの陣営につき、同盟を結んでいることだ。

クサシ、マンプルシの武力衝突は大規模なものだけでも1983年、1984年、1985年、2000年、2007年と起きている。これ以外にも、死者を伴う小競り合いは頻発している。

ガーナの地図。紛争が起こっているボク(Bawku)は右上にある

ガーナの地図。紛争が起こっているボク(Bawku)は右上にある

■英国のせいではなかった?

ボク紛争は一般的に、英国の植民地時代の政策に原因があるといわれる。しかしガーナ大学のアルハッサン・スレマナ・アナムゾーヤ上級講師は「紛争の原因は植民地化以前にまでさかのぼる」と異論を唱える。

ボクにはもともとクサシが住んでいて、マンプルシはノーザン州のマンプルシ王国にいた。アナムゾーヤ上級講師の説明はこうだ。

商業の中心地だったボクにはかつて、富を求めてやってくる侵略者が絶えなかった。そのためクサシはマンプルシ王国に保護を求め、マンプルシ軍がボクに駐留するようになった。首長位制度をもたなかったクサシは徐々に、マンプルシ軍のリーダーを政治的指導者(首長)として受け入れ始めた。英国が植民地支配した後も、間接統治(伝統的権威のチーフを利用し、ガーナを間接的に支配した)の一環として、この仕組みは継続されたという。

ただ驚くべきは、ガーナが独立するまでは、クサシとマンプルシが衝突することはなかったという事実だ。ところがクサシは独立後、突如として、ボクの支配権回復を要求。この裏には、ボクの資源をコントロールしたいとの狙いがあったといわれる。

クサシの要求を、当時のクワメ・エンクルマ大統領は認めた。これによってボクの自治権はクサシに戻った。だが今度はマンプルシがこれに反発。両民族は裁判で争っていたが、この時点ではまだ殺し合いにまで悪化していなかった。

武力紛争に発展したのは、ジェリー・ローリングス空軍大尉が軍事クーデターで政権を掌握した1980年代だ。アナムゾーヤ上級講師は「軍事政権下で、裁判などの法制度が機能しなくなった。だから暴力に訴えるしかなくなったのでは」と推測する。

クサシとマンプルシの争いには、実は植民地以前の歴史が深くかかわっていた。

■失業・長い乾期・女性・政党‥‥

紛争の要因は、土地の帰属権や資源、歴史だけではない。現代の社会問題も複雑に絡み合っている。

国連大学アフリカ自然資源研究所(UNU-INRA)の草苅康子研究員は「紛争に積極的に参加しているのは、(テロリストではなく)地元のふつうの若者や農民たちだ」と明かす。この背景には、貧しさや気候などがある。

「開発が遅れ、産業の少ない北部では、多くの若者が失業している。若くて体力があるのに、時間を持て余し、不満もたまっている。北部は、南部に比べて乾期が長く、灌がいも整備されていない。だから農民は、乾期は無職になる。紛争が起きれば、争いに動員されやすい」(草苅研究員)

女性と紛争のかかわり方も興味深い。北部ガーナでは、女性が平和の推進役を担う一方で、敵のうわさを流したり、夫を紛争に参加するようそそのかすこともある。また、対立するグループの女性同士が一緒に経済活動を行い、それぞれの家庭で平和の大切さを再認識するきっかけを作ることもあるという。草苅研究員は「地域の平和・紛争に女性が及ぼす影響は大きい」と説明する。

これ以外にも、紛争に付き物の資金や武器を供与する黒幕の存在も指摘されている。「アクラやクマシなどの都市に、資金や武器を援助する人がいるとのうわさもある」(草苅研究員)。ガーナ大学のスティーブン・トナー准教授とアナムゾーヤ上級講師は「ボク紛争やダボン(ノーザン州)紛争の対立勢力の裏には、2大政党の国家民主党(NDP)と国家愛国党(NPP)がついている」と分析する。

ガーナ北部の紛争で使われる武器は通常、地元の鍛冶屋が作るナタや小型銃などだ。ところがボク紛争では、周辺国から流入したロシア製自動小銃「AK-47」など本格的な武器で戦っている。心配なのは、こうした武器はすでに拡散してしまっていること。完全に回収することはもはや難しい。

■援助は脇役・地元民が主役

私が強調したいのは、少なくとも北部ガーナの紛争の要因は単純ではないということ。土地、資源、歴史、失業、長い乾期、政党など、あらゆる要素が絡んでいる。それゆえに、武器の流通を止めたり、両勢力を交渉のテーブルにつかせても、万事が解決とはならない。根本的な解決を目指すのであれば、失業対策から気候変動対策まで幅広い取り組みが不可欠。それでも正直、解決は難しい気がする。

国連は2009年6月~2013年5月、ガーナ北部3州で「人間の安全保障プログラム」(HSP)を実施した。紛争予防と社会経済開発を包括的に進めるもので、日本が提案・設置した国連「人間の安全保障基金」から資金援助を受けた。

プログラムの内容は、地方政府への紛争予防の訓練(紛争の分析手法、早期警戒の方法、利害関係者が多数いる中での意思決定の仕方などを指導)、鍛冶や農業の技術指導、農業生産性の向上(水管理の指導、穀物の種子提供など)、栄養の改善、女性グループへの小規模融資など。

とりわけ力を注いだのは、コミュニティに「人間の安全保障」(恐怖からの自由、欠乏からの自由、尊厳のある生活の3本柱から成るコンセプト)の概念を定着させるため、コミュニティのメンバーをファシリテーターとして養成したことだ。

このプログラムにかかわった草苅研究員は言う。「平和を維持するのは、ほかでもない地元の人たち。国連は、地元の人が平和の担い手となっていけるよう、能力開発を側面支援する」

紛争を根付かせる要因を持ち込んだのは、旧宗主国や不公平な貿易で得をしている先進国など外部者かもしれない。だが紛争を根本的に解決するのはやはり、その地域の人たちだ。援助する側は脇役でしかなく、紛争そのものに介入すると事態は余計悪化させるのかな、と私は思った。