ミャンマーの日系養育施設で働くスタッフ、「子どもを愛して悲しみから立ち直れた」

みんなに愛されているザザさん(ドリームトレイン施設にて)みんなに愛されているザザさん(ミャンマー・ヤンゴンの養育施設ドリームトレインで撮影)

日本のNGOジャパンハート(本部:東京・台東)がミャンマー・ヤンゴンで運営する養育施設「ドリームトレイン」のスタッフであるザザさん(34歳)。2010年の設立以来、数百人にのぼる子どもたちの母親代わりとして働いてきた。彼女がここにやって来たきっかけは、25歳のときに両親を病気で失ったこと。「この施設で暮らす子どもたちを愛することで、私は新しい人生をスタートできた」と話す。

■寝付くまで仕事は終わらない

ドリームトレインのスタッフは現在25人。下は24歳、上は60歳と年齢は幅広い。勤続年数が長いザザさんはスタッフのなかでも中心的な存在だ。

施設での1日は忙しい。子どもたちの学校がある日は毎日5時に起床。子どもの世話や掃除をする。「大変なのは、小さい子どもが夜なかなか寝付いてくれないときね。放っておけないから、寝付くまでは私の仕事も終わらないの」

子どもとの接し方に悩むスタッフの相談に乗ることもある。「スタッフを母親と思って慕ってくれる子もいるし、なかなか心を開いてくれない難しい子もいる。小さい子ならたくさん笑わせてあげると距離が縮まる。難しい子であれば、その子自身をよく観察して、時間をかけてたくさん話しかける。そうやって辛抱強く接していくと徐々に関係は良くなるのよ」

■両親との別れは突然に

多くの子どもとスタッフに慕われるザザさんだが、ドリームトレインに10年前に就職した当初は失意のどん底にあった。

軍人の父、政府機関で働く母のもと、4人の兄と3人の姉の8人きょうだいの末っ子としてザザさんはヤンゴンに生まれた。「父も兄も全員軍人。だから私の最初の夢は軍人になることだった。そのあとは看護師になりたいと思った。でも看護学校に通うには家を出なければいけなくて、寂しがる母が心配で諦めたの」

ザザさんはそのため大学に進学し、卒業した後、民間と軍管轄の2つの縫製工場に勤めた。中国や韓国に輸出する洋服やミャンマーの筒状の伝統衣装ロンジーを作るために足踏み式ミシンのペダルを踏み続けた。

転機は突然訪れた。2009年に父が、2010年には母が相次いで病死したのだ。「そのとき4人の兄は離れて暮らしていたし、3人の姉のうち2人はタイに、1人はすでに他界していたの。ひとりぼっちになったのよ」。末っ子として両親の愛情を一身に受けてきただけにショックは大きかった。

そんなザザさんを心配したきょうだいとおじが勧めたのが、ドリームトレインで働くことだった。子どもたちの世話をしながら彼らと一緒に暮らすことでザザさんの寂しさが和らげば、と考えたのだ。

■“夢の列車”はセカンドホーム

こうしてドリームトレインでのザザさんの第2の人生が始まった。

血のつながりはなくても、ここの子どもたちは自分の家族だと思ってザザさんは愛情を注いだ。「そうしているうちにドリームトレインは私のセカンドホームだと感じるようになった。施設の子どもという“新しい家族”がいるからいまは寂しくない。子どもの成長がなによりの喜びになったの」。彼女の傷は徐々に癒えていった。

ザザさんは今後もドリームトレインの子どもたちのために働き続けるつもりだ。次の夢は、看護師の資格をとること。ボランティアとして施設に常駐する日本人の看護師が子どものけがを手当てする姿を見て、「自分もあんなケアができるようになりたい」と強く思ったのだ。

ザザさんには、実はかねてから交際する恋人がいる。ヤンゴンから遠い場所で暮らす彼から「一緒に住もう」とプロポーズを受けたが、「ドリームトレインでまだ働きたいの」と断った。彼女の人生の軸は、恋人よりも子ども。人生のどん底からやりがいを見つけたザザさんにとってドリームトレインは文字通り“夢の列車”なのだ。