ganasサポーターズクラブ エッセーの会
  • 2020/07/24

日本人は宗教にはまれるのか? 私がヨーガを学んだ3カ月

yoga
*この記事は「ganasサポーターズクラブ」の「エッセーの会」に参加されているパートナー/サポーターの方の作品です

皆さんはヨーガを知っているだろうか。今、日本で流行っている「ヨガ」の源流思想である。古代インド発祥のヨーガを、私はここ札幌で学ぶことになった。今回は私が学んだ3カ月を振り返るとともに、「自分だったらヨーガを信じられるか」をいっしょに考えてみてほしい。

●始まりは怪しい勧誘

今から2年前、当時私は大学2年生が始まったばかりであった。ある日、札幌駅に隣接しているヨドバシカメラの前を通り過ぎようという時に、女性の2人組に声をかけられた。

「すみません、私たちヨーガを教える生徒を探しているんですけど…」
見るからに怪しい。ヨーガとは何なのか? そもそもあなた方は誰なのか?

その人たちの話を注意深く聞いた。すると大体以下のようなことが分かった。

「2人は『先生』のもとでヨーガを学んでいる」
「将来ヨーガを教える立場になりたいので練習がしたい」
「まだ素人なのでお金は取らない」

正直まだ怪しい。ヨーガのこともその人達の素性もわからない。しかし大学生活に刺激を求めていた私は、詳しい説明を受けることにした。後日マックで会うことを約束し、その場を後にした。

数日後、話を聞く中で、2人は何者なのかを知ることができた。
1人は40歳前後のAさん。建築から色に興味を持ち、そこからヨーガの世界に出会ったという。この人が主に話をしていた。

もう一人は30歳前後のBさん。何かの研究室に勤務しているそうだ。ずいぶん美人であった。私はこの経歴にいたく興味がわいた。ヨーガを学びたいというより、その話が聞きたくなった。今思えば軽率な行動であったが、ともかく私は札幌駅の喫茶店を転々としながら、全20回の講義を受けた。

●カルマの法則を理解する

最初に学んだものは「カルマの法則」であった。簡単に言うと「なしたことは同じ条件で返ってくる」である。例えば今自分が幸福だとしたら、それは過去に善い行いをしたからだ。また未来を幸福にしたければ、今善い行いをすればよい。

「これが唯一の真理です」
Aさんはそう力説した。確かに真理と思わせるほどの明瞭さである。

またこの応用に「カルマ落とし」がある。何か自分に苦難があった時、カルマの法則からするとそれは過去に自分が悪行を行ったからだ。つまり過去の自分の悪行を清算したともいえる。だからこそヨーガを学ぶ人は、苦しい時に感謝をする。

これができる人は強い。どんな逆境にも折れずに立ち向かえるであろう。この時私はカルマ落としを、理解したが信じてはいない。だからこそ、これを信じて行える人たちを私は「うらやましい」と思った。

●ヨーガの世界観に戸惑う

それからヨーガの世界観の話に移った。しかしこれが中々のくせ者である。

私たちが今いる世界は「現象界」という。一つ上の次元が「アストラル世界」といい、最高位の次元は「コーザル世界」という。何を言っているかわからないと思うが、当時の私もよくわからなかった。

また私たちの最も中心に「真我」がある。その名の通り本当の自分である「真我」になると、真の自由が手に入る。

ヨーガの目的は、解脱によって「コーザル世界」で「真我」になることだ。私は真我になることが具体的にどういうことなのか、人生をかけてまで目指すものなのか、終ぞ納得ができなかった。これが私がヨーガを学ぶことをやめた、理由のひとつでもある。

●私と、Aさんらの関係が変わっていく

初めは私にとって、AさんもBさんも他人であった。それもただの他人ではない。ヨーガという全く別の世界に生きるという意味で、ただの他人よりも遠い存在だ。しかし時間を経るごとに、お互いの間にある境界に変化が生じる。

回を重ねるごとに、私は自分の話をするようになった。今興味があることや過去の失敗など、それは自分の中でくすぶっていた何かを吐き出すようであった。今どき、ただ話を聞いてくれる人は少ない。皆自分のことで手一杯だ。だからこそ、ひたすら聞くその姿勢がありがたかった。この姿勢がとれる人に、「何かを信じている人」が多いのも不思議である。

あるときAさんが会ってほしい人がいると言った。
「私がヨーガを学んでいる人の中で、いちばん尊敬できる人なんです」

それならばと私はAさんらを交えて会ってみた。その人は元々ボクサーとしてそれなりに有名だったという。彼はその生き方に疑問を感じ出した頃にヨーガに出会った。見た目は爽やかであったが、何か違和感を覚える。この人には自分のことを打ち明けられない、そう感じた。

後日、私はAさんにはっきり言った。
「あの人には何も話せない。私はAさんとBさんだから話しているんです」

そのとき、はたと思った。ボクサーもAさんらもヨーガを学んでいるという点では同じくくりのはずである。私とヨーガの人たちの間に常に線が引かれていたはずだ。しかしそれがボクサーと、3人(私・Aさん・Bさん)の間の線に変わっていた。Aさんらが私と同じ立場だと感じたのだ。ヨーガの人という意味で「異なる」人だったのが、いつの間にか「同じ」人になっていた。

サポーターズクラブの皆さんは、途上国に行ったことがある人が多いのではないだろうか。そこで出会う人は、ヨーガの人よりも「異なる」かもしれない。住む環境も言語も違うという意味で引いていた境界。それが、長く交流して線が引き直されることによって、同じ存在だと感じることはなかっただろうか。今回の私の経験と通ずるものがあるのかもしれない。

●「信じること」のむずかしさ

私は結局ヨーガとは決別した。Aさんらを信頼していたが、彼女らが信じていたヨーガは信じられなかった。そして思うことは、彼女らが見ていた世界を見れなくて残念だということだ。

例えばカルマ落としを信じる人と普通の人では、苦難にあった時に見える世界が違う。同じ世界にいるはずなのに、違う景色が見えている。私はその景色が見てみたかった。

しかし私自身、何も変わっていないわけではない。時折「これはカルマの法則で起きたことかもしれない」と思うことがある。カルマの法則というヨーガの残滓が私の中でただよい、私に「もしかすると…」と思わせる。それはすでに、私が以前みていた現実に戻れないことを意味しているのだ。「信じること」はこうして始まるのかもしれない。

(サポーター/匿名

*この記事はganasサポーターズクラブのエッセーの会に参加するパートナー/ サポーターの方の作品です。
*ganasサポーターズクラブのエッセーの会では、エッセーの書き方を学んだりフィードバックしあったり、テーマについてディスカッションしたりして、楽しくライティングをスキルアップしています。
*文責は筆者にあり、ganasの主義・主張ではありません。