【環境と開発の接点(1)】ポイ捨ては“文化”?! マンゴーは種を捨てれば実がなるのに‥‥~途上国の環境意識はなぜ低いのか~

村のどこにでもあるマンゴーの木。日本では1個500円ぐらいで売られているこの高級な果物も、ここでは“ただ”。お腹が空いたら、石を投げて、実を落とす子どもたちも村のどこにでもあるマンゴーの木。日本では1個500円ぐらいで売られているこの高級な果物も、ここでは“ただ”。お腹が空いたら、石を投げて、実を落とす子どもたちも

「ミスワールド」をはじめ、世界の名だたるミスコンテストで、他に追随を許さない好成績を収めている南米ベネズエラ。そんな美女大国の田舎(マリパ村)に青年海外協力隊員として住み始めて8カ月が過ぎた。私の任務は「環境教育」。ところがそこに待ち受けていたのは、容姿の端麗さとは似ても似つかない“ごみの山”だった。第一回は、ごみのポイ捨てを例に、環境意識の欠如を考えてみた。

■自然の楽園なのにごみだらけ

「文化なんだよ」

ごみのポイ捨てについて、ベネズエラ環境省マリパ事務所に勤めるペドロ・ゴンサレスさん(52歳)は屈託のない笑顔でこうあっさり言い切った。

人口わずか3000人のマリパ(ベネズエラ南東部の村)の路上にはごみがあふれかえっている。コーラのペットボトル、ビールの瓶、ふた、菓子の包み、ビニール袋、プラスチックのコップ、ストロー、空き缶、ジュースの紙パック、ダンボール箱、新聞、ティッシュペーパー、破れた服、食べ残し‥‥落ちていないモノはないんじゃないかというほど、いろんな生活ごみが散乱している。

この村に初めて足を踏み入れたとき正直、「うっ、汚い」と思った。ちなみにマリパの周りのサバンナにはアルマジロもとことこ歩いているし、すぐ脇を流れるカウラ川にはワニも生息している。巨大ナマズも釣れる。ピンクイルカも泳いでいる。サルだって木を登っている。カナリアも飛んでいる。自然美は完璧。そんな楽園なのに、人間の集落だけは“ごみだらけ”なのだ。

マリパは美しいけれど汚いね、という感想を伝えると、ペドロさんは怒るふうもなく「ん? あっ、ごみのこと? ははは。そう? だれも気にしないんだよ」と無関心に答えながら、運転中のトヨタ・ランドクルーザーの窓を開け、飲み終えたコーラのペットボトルをサバンナ(自然保護区)にポイッと投げ捨てた。「クルマの中はきれいにしとかなくちゃね」と当たり前のように‥‥。

村のどこにでもあるマンゴーの木。日本では1個500円ぐらいで売られているこの高級な果物も、ここでは“ただ”。お腹が空いたら、石を投げて、実を落とす子どもたちも

村のどこにでもあるマンゴーの木。日本では1個500円ぐらいで売られているこの高級な果物も、ここでは“ただ”。お腹が空いたら、石を投げて、実を落とす子どもたちも

■“あしたの食べ物に困らない暮らし”の意味とは?

マリパは自然が豊かだ。イモは耕さなくても実るし、マンゴーやパパイヤ、バナナ、アボカドなどの木は、道端にはもちろん、どこの家の庭にも生えていて、たわわに実っている。重さ30キログラム程度の魚も、針の付いた糸を川に垂らしておけば次の日には掛かっている。それらを食べてずっと暮らしてきた。

「マンゴーの木? 食べ終わった後の種をそこらへんにポイッと捨てれば、自然に生えてくるんだよ。そして数年も経てば、たくさんの実をつけてくれるのさ。剥いた皮もその辺りに投げておけば、知らないうちに消えているし」(近所の人)

食べ物の収穫から後始末まで、自然に大きく依存してきた生活。そうしたライフスタイルの中に、プラスチックやら、瓶やら、缶やらの、自然が咀嚼できない“ごみ”が入ってきた。

“捨てる文化”から“捨てない文化”へ。時代が変わったからやり方を変えろ、と突然いわれても、長年培ってきた“捨てる慣習”からそう簡単に抜け出せるはずもない。捨てて何が悪いのか(マンゴーは捨てれば実るのに)――と彼らは思っている。どれが“土に返らないごみ”なのかさえ、マリパの人にとって区別することは難しい。

食堂の経営者で、村一番のインテリのエルピディオ・ヒメネスさん(64歳)は言う。

「自然の恵みだけで、働かなくても食べてこられた、という歴史がある。だから、みんな面倒くさいことはやらない。捨てるのは簡単だが、ごみを持ち帰るとか、拾うとか、分別するとか、リサイクルするとかは大変なんだよ」

それにここは暑い。一年中、日本でいう真夏日みたいなもの。炎天下で働くというのは想像以上に酷。無理をすると頭が痛くなるし、それこそ病気になってしまう。できるだけ動かないようにして1日を過ごすというのが流儀であり、暮らしの知恵だったのだ。

熱帯の気候では、食料を保存できなかったこともあって、元来、その日の食べ物はその日に調達していた。採るのは簡単。飢えとも無縁。“あしたの食べ物”は心配しなくても良かった。裏を返せば、先々を考えなくても生きていけたことを意味する。

こうした文化にどっぷりと漬かってきた彼らはだから、数日後、数カ月後、数年後、ましてや数十年後や数百年後を想像することが大の苦手だ。環境問題は、未来を想像するところがいわば出発点。“未来を考えない習慣”が環境意識の創出を妨げる大きな要因となっている。

小学校の校内でごみ拾いをする子どもたち。教育の現場なのに、新聞やダンボール、プラスチックの容器、蛍光灯、瓶など、あらゆるごみが落ちている。ごみを捨てなければ、灼熱の中わざわざ拾わないで済むのだけれど‥‥

小学校の校内でごみ拾いをする子どもたち。教育の現場なのに、新聞やダンボール、プラスチックの容器、蛍光灯、瓶など、あらゆるごみが落ちている。ごみを捨てなければ、灼熱の中わざわざ拾わないで済むのだけれど‥‥

■「自分が拾った量のごみは捨ててもいいんでしょ」

「ごみのポイ捨てはいけません。ごみ箱にちゃんと入れましょう」

マリパの学校ではきちんとこう教えている。ポイ捨てを見られると先生からもとがめられる。みんなでごみを拾うイベントも時々開かれ、黒いビニール袋を持って、校内や広場などでごみを拾う。わずか30分で見違えるようにすっきりする。

しかしその翌日にはもう、ごみが散らかっている。せっかく拾ったのに。

その理由を高校生に尋ねると、「先生だってポイ捨てしているし‥‥。幼いときにごみのポイ捨てはいけないって親から注意されたこともない。さっきごみを拾ったんだから、それと同じ量のごみはまた捨ててもいいんでしょ、とみんな思っている」。

マリパでは老若男女のほとんどがごみをポイ捨てする。この行動を人々、とりわけ若い世代はどう捉えているのだろうか。「ごみをポイ捨てする人は好き? もし恋人がポイ捨てする人だったらどうする?」と聞いてみた。

ヘネシス・ロドリゲスさん(12歳)は「カッコよくて、優しくて、お金を持っていて、頭が良ければ、ごみをポイポイ捨てたって構わないよ。私も彼と一緒に捨てちゃう。どうせ下級労働者が拾ってくれるでしょ」と気にも留めない。

この意見がフツー。ごみを拾うのは階級が下の人のやることだと思っているのだ。

まだ少数だが異なる考えの持ち主もいる。ネイラ・コレアさん(16歳)は「もし恋人がポイ捨てする人だったら、まず注意をする。それでも止めなければ別れる。友だちのひとりは、恋人がごみをポイ捨てするのを目にして、本当にその彼と別れたよ。『もうポイ捨てしないから考え直してくれ』って彼に頼まれたけど、どうせまたやるに決まっているから許さないって」。

この違いはどこからくるのだろうか。ネイラさんがその謎を解き明かしてくれた。

「小学校に通っていたとき、『ごみは捨てるな』と担任の先生にものすごくしつこく教わった。それまではキャンディーの包みやボトルも瓶もなにもかも道に捨てていた。だけど(熱帯は日差しが強いから)火事の原因にもなるでしょ? 唾をペッと道に吐くみたいに行儀も悪いしね」

ごみのポイ捨てはいけない、とはみんな知っている。しかし、どうして捨ててはいけないのかという実感が伴っていない。ごみを捨てることに罪悪感も覚えない。ポイ捨てする人が嫌われる風潮もない。またずっと住んでいると「この村はごみだらけで汚い」との感覚すら失われていく。早い話、ポイ捨てしないための動機付けも、また理由も足りないのだ。

結局のところ、ごみ教育を執拗に続けるしか改善策はないのだろう。ポイ捨てはやはり一朝一夕にはなくならない。なにしろ、ポイ捨て自体が文化かどうかはともかく、その奥深くには文化が絡んでいるのだから。(続き