【環境と開発の接点(5)】そうじを考える、ごみが見えない人たち~「割れ窓理論」は有効なのか~

2007.03.01紙くずやビニール袋、プラスチックのコップ、ペットボトルなどが散乱する公園でブランコ遊びをする子ども。マリパの人は生まれたときから、ごみと一緒に育つ。ごみに慣れてしまった目は、ごみに対して敏感に反応しない

そうじ――。この行為はシンプルに見えて、実はなかなか奥が深い。今回は、ベネズエラの田舎でごみ拾いのイベントを企画、それに参加したとき、ベネズエラ人の典型的な行動を観察して“見えたもの”を「割れ窓理論」(ブロークン・ウインドー・セオリー)と併せて考察してみたい。

■ごみを拾っている「本人」がごみを捨てる

「ここを見なさい。ごみがたくさん落ちているでしょ。ジュースのパックや紙切れ、ペットボトル、ガラスびんも‥‥。こっちに来てさっさと拾いなさいよ」

ごみ拾いの最中に、高校教師のレニス・ゴメスさんがしつこく大声を張り上げていた。

これは、私が暮らすマリパ(ベネズエラ南東部の村。人口約3000人)で目抜き通りをそうじするイベントを開いたときのこと。いわば強制的に参加させられた40人以上の高校生たちは黙々とごみを拾うのではなく、アイスクリームやキャンディ、コーラを片手に持ってだべりながら、ちんたらと歩いていた。

ごみ拾いのイベントなのに、9割の人はごみをほとんど拾わない。立っているのはまだマシな方で、道端にべたりと座り込んでしまう者も。熱帯のマリパは日差しが強いのでサボりたくなるのも分からないではないが、挙句の果ては「先生、お腹が減ったよ」とクレームを付ける始末‥‥。

「ごみを拾わないと、成績を下げるわよ」と、先生が一人ひとりにいちいち声をかけていく。注意された生徒はそのときだけ腰を屈め、ストローや空きびん、キャンディの包みなどを3~4個拾う。

そのとき、驚くべき光景を目にした。

ある女子生徒が、アイスを食べながら、かったるそうにごみを拾い始めた。やがてアイスを食べ終わると、自分でごみを拾っているにもかかわらず、アイスの袋と棒を路上にポイッと捨て、それを自分の足で踏み付けながら、「先生、ごみ拾ったよ!」と胸を張ったのだ。

ごみを拾っている目の前で、通りすがりの人にポイ捨てされ、ムカついた――というのはよく耳にする話。しかし、ごみをいま拾っているその本人自らが、右手でごみを拾いながら、左手でごみを捨て、さらにそれを何の気もなしに踏んで去っていく。前代未聞というか、私は自分の目を疑った。拾っているんだか、捨てているんだか‥‥。

これまでも、「ごみを捨てるやつは大ばか者だ」と力説する男性がその最中にびんをポイッと放り投げたり、またその場に居合わせた大勢の人も彼の言動の不一致に気づかない――と摩訶不思議な光景を幾度となく見せ付けられてきた。しかし今回のあまりに不条理なポイ捨ては、大きなショックを私に与えた。想像をはるかに超える、ごみに対する意識の低さ。環境教育もへったくれもないのではないか、と。

そんな子どもたちに、「なんでごみ拾いをするの?」と質問してみると、「ごみを路上に捨てない、という意識を“みんな”に植え付けるため」という立派な答えが決まって返ってくる。先生の説教の受け売りなのだが、その先生も、言わずもがな、ふだんはポイ捨てをする。

■ごみの中で育った子ども‥‥、落ち葉がごみ?

路上のごみを単純に拾っても、すぐにまた捨てられるのは火を見るよりも明らか。だから今回のそうじでは、「ごみはないほうが気持ちいいでしょ」と視覚ではっきりと感じてもらえるように、いくつかの仕掛けを考えていた。その1つが、ごみを拾う前と拾った後に同じ地点の写真を撮って、比べてみようというものだった。

ところがその目論見は失敗した。なぜか。拾う前と拾った後の写真を並べても、思ったように差が出なかったのだ。はっきり言えば、ごみを拾った後も、ごみがけっこう残っていたのだ。

理由はいくつもある。まず、ごみがあふれすぎていること。とりわけ空き地にはごみが二重三重にも捨てられている。

次に、熱心に拾わないこと。そもそもごみは植え込みや道路の端っこなど、ちょっと見えにくいところ、手の届きにくいところにたくさん落ちている。道の真ん中にはそんなにない。わざわざ手を伸ばして拾うのは面倒くさい。

これ以外に、一生懸命拾っている生徒を見て気付いたことがある。彼らはごみがあまり視界に入ってこない。早い話、ごみが見えていないのだ。

考えてみれば、当然なことかもしれない。日本をはじめ先進国の人たちにとっては、ごみが目に付いてしょうがない。それはごみが周りにないところで育ったから。たとえばマリパでは野生のイグアナを目にしない日はないが、私はいまだに「おっ」と驚いてしまう。けれどもマリパの人の視覚は反応しない。ただの日常だから。ごみの中に身を置いてきた彼らにとってごみは“風景”のひとつなわけだ。

そもそもこっちの子どもたちは何がごみなのかさえよく分かっていない。ペットボトルやガラスびんが散らかっているのに、落ち葉(都会ならともかく、ここは田舎)ばかり拾いたがる。今回のそうじでは、マリパではおそらく初めて、ごみの分別(びん、カン、ペットボトル、ストローや使い捨てのプラスチック製コップなど柔らかいプラスチック類、その他燃えるごみ――の5種類)を実施したが、結果はめちゃくちゃ。分別が難しいことは承知している。ただどんなに説明しても聞く耳さえ持ってくれない。

国際的な非政府組織(NGO)「ワイルドライフ・コンサベーション・ソサエティ(WCS)」で働くベネズエラ人で、10年以上も前からマリパで環境保全活動をするフェリックス・ダサさん(37歳)はこう嘆く。

「マリパの人はどうしようもなく何事にも無関心なんだ。人の話は聞かないし。何もやりたがらない。(中央政府や国際機関から援助を受けることに慣れてしまっているから)モノやサービスはただで与えられるものだと信じ込んでいるんだよ、彼らは。だから自分たちで変わろうなんて全然思っちゃいない」

■ビンやペットボトルの「ふた」はどこに消えた?

集めたごみを体重計を使って計測してみた。そしたらなんと300キログラム近くもあった。

1時間ちょっと、数百メートルの道を1本そうじしただけなのに。しかも拾い残しもたくさんあるというのに。

ごみのほとんどはびん、かん、ペットボトルなどの容器だ。そのとき、あることに気が付いた。

「待てよ。容器のふたがひとつもないじゃないか。どこに行った?」

私が大騒ぎして周りの人たちにこう尋ねると、「さあ。そんなの知らないよ。ま、どっちでもいいじゃない。小さいし」と興味なさそうに返事をする。

ふたはどこに消えたのか、村の中を探し回っていたら、「はっ」と気が付いた。道路のアスファルトに目をやる。そこに、めり込んでいたのだ。

飲み物を買ったらたいていの場合、店先ですぐにふたを開けて飲み始める。そしてじゃまなふたは即捨てる。その上をクルマが何台も通り過ぎていく。気が付けば、とくに硬いふたは壊れずに、アスファルトにめり込むのだ。だから店の前の道には、たくさんのふたが滑り止めのように化している。

止まらないごみのポイ捨て。ではこの惨状をどうやって打開すればいいのだろう。

そこで思い当たったのが「割れ窓理論」(ブロークン・ウインドー・セオリー)という考え方。社会問題、とりわけ治安を回復させる際にヒントとして使われるもので、ごみ問題にも適用できる。このセオリーの中身を簡単に説明すると次のようになる。

アメリカ合衆国のあるところにクルマを路上駐車して放置しておいた。何日経っても何も起こらない。ところがクルマの窓ガラスを1つ割ってそのままにしておくと、数日後、カーステレオ、エンジン、タイヤなどが次々に盗まれていったという。

つまり、窓ガラスが割られていなかったら誰も何もしないのに、ちょっとした乱れがあるとそれが呼び水となって、社会の秩序が大きく乱れる、ということ。治安問題を例にとると、小さな秩序を保つことが窃盗などの軽犯罪の発生を防ぎ、ひいては殺人などの重犯罪防止につながるという。

これをごみ問題に置き換えれば、ごみが落ちているからみんながポイ捨てする。ごみがなければ、誰もポイ捨てしない、ということになる。

日本では、ごみ拾いをしている姿を人々に見せることで、「ポイ捨てしないでね」という意識をいくらかは喚起できるし、タバコを吸う人だって、ごみひとつ落ちていないきれいな街では吸殻のポイ捨てもためらうだろう。いわば「割れ窓理論」は機能するわけだ。

ではマリパの村を徹底的にそうじして、路上からごみを一切排除したら、どうなるのか。ひょっとしてポイ捨てはグッと減るのかもしれない。期待を込めてこんな疑問を、ベネズエラ環境省マリパ事務所の同僚であるミレイサ・フィゲラさん(35歳)にぶつけてみた。

「それはありえないわ。マリパをみればわかるでしょ。広場は毎朝そうじされているけど、いつも午後にはもうごみが落ちているよね」

ごみ拾いのこのイベント、1週間後に2回目をやった。まったく同じ場所をそうじしたのだが、さらに40キログラム弱のごみが出た。

ごみだらけの道や公園で遊びながら育った子どもたち。彼らはごみに馴染み過ぎている。ごみに慣れきってしまった目の瞳に、ごみは映らないのだ。(続き