ミャンマーのロヒンギャ居住区を訪ねてみた、笑顔・貧困・期待・憎しみ・民主主義の限界‥‥

マドラサで勉強するロヒンギャ女の子ラカイン州シットウェにあるロヒンギャ居住区(アウンミンガラー)のマドラサで勉強する女子生徒

ミャンマー西部のラカイン州には、イスラム教を信仰するベンガル系住民「ロヒンギャ」の居住区がある。ゲットーのように、外から隔離されているのが特徴だ。仏教徒のミャンマー人や外国人は原則入れない。筆者は、ラカイン州の州都シットウェにあるロヒンギャ居住区に潜入できた。ロヒンギャの暮らしぶりをレポートする。

■「ロヒンギャに殺されるぞ」

ミャンマーの最大都市ヤンゴンから飛ぶことおよそ1時間半。シットウェの空港に降り立つと、許可なしでは入れない地区をひとつひとつ書いたボードが目に入る。その中には難民キャンプ(ミャンマー政府はロヒンギャに国籍を付与していないため、ミャンマー国内にロヒンギャの“難民キャンプ”がある)ももちろん含まれる。

シットウェ中心部の中級ホテルにチェックインした私は、リセプションで尋ねてみた。

「ロヒンギャのコミュニティに行きたい。どうすればいい?」

すると従業員からこんな言葉が返ってきた。

「危ない。やめておけ。殺されるぞ」

ホテルの大半の従業員は仏教徒のアラカン(ラカイン)だ。アラカンといえば、ロヒンギャと対立する民族として知られる。2012年には、ロヒンギャがアラカンの少女を殺害、その報復としてアラカンはロヒンギャの家々を焼き払った。10万人以上のロヒンギャが家を失ったといわれる。

ロヒンギャの家々をアラカンが2012年、焼き払った。その跡地(ラカイン州シットウェ)

ロヒンギャの家々をアラカンが2012年、焼き払った。その跡地(ラカイン州シットウェ)

「どこらへんにロヒンギャが住んでいるのか、せめて教えてほしい」。私が執拗に食い下がると、レセプションの従業員は別の従業員に「この日本人をバンガリ(ベンガル人の意。ロヒンギャのことをバンガリとアラカンは呼ぶ)のところに、バイクで連れて行ってあげて」と指示した。

ところがバイクに乗せてくれた従業員は、ロヒンギャの居住区に近づくのを異様に怖がった。街を1周して5分ぐらいでホテルに戻ってきた。

「ロヒンギャがどこに住んでいるのか全然分からなかった」。私が不満をもらすと、レセプションの従業員は、別の従業員を呼んだ。彼はバイクで私を、ロヒンギャ居住区のすぐそばまで連れて行ってくれた。

ロヒンギャ居住区の前には警官(ビルマ族)が監視していて、場所によっては柵が置かれている。12年に起きたアラカンとロヒンギャの大規模な衝突(死者200人以上。その大半はロヒンギャ)から4年経ったいまも、ロヒンギャは完全に隔離されていた。

バイクで案内してくれた従業員は言う。

「バンガリ(ロヒンギャのこと)はバングラデシュから来た外国人。ミャンマー人ではない。たくさんの子どもを生むから、バンガリの人口が増え続けている(のが良くない)。ミャンマーから独立したがっている。だがミャンマーは8つの主要民族のものだ。『ロヒンギャ』という言い方は国家を表す。それを認めないから、バンガリと呼ぶんだ」

ちなみにミャンマーにはロヒンギャを差別する法律がいくつかある。ひとつは、ロヒンギャをターゲットにした、産む子どもの数を制限する法律。ふたつめはミャンマーの国籍法。国籍法は135の民族(主要民族はカチン、カヤー、カレン、チン、モン、ビルマ、アラカン、シャンの8つ)を認定しているが、ロヒンギャは入っていない。早い話、ロヒンギャは法律上、ミャンマー人ではないのだ。

ロヒンギャ居住区の入り口にあるゲート

ロヒンギャ居住区の入り口(シットウェ)

■「街中に行くとアラカンに殺される」

シットウェには、ロヒンギャを収容する難民キャンプと、隔離された居住区がいくつかある。ロヒンギャ居住区のひとつアウンミンガラー地区(クオーター)は、シットウェの中心部から歩いて20分のところにある。

私は翌日、アウンミンガラーにひとりで行ってみた。ゲートがいくつかあるが、見張りが熱心でない警官がいるゲートを見つけ、何食わぬ顔で通り過ぎると、するりと入れた。

1分も歩かないうちに、ニコニコした子どもたちがたくさん近寄ってきた。「ロヒンギャ?」。私が尋ねると、「そうだよ!」。

顔つきは南アジア系。アラカンが恐れるような凶暴さはみじんも感じない。むしろ人懐っこい。子どもたちを引き連れ、居住区の中を突き進む。今度は大人が声をかけてきた。コピア(イスラム教徒の帽子)を被り、あごひげをはやし、いかにもイスラム教徒といった風貌だ。

屋台のカフェでいすを勧められ、チャイ(仏教徒のミャンマー人の場合はお茶を飲む)をごちそうしてくれる。片言の英語を話せるロヒンギャの男性たちが熱く語り始めた。

「シットウェのダウンタウンにも、(その中にある)マーケットにもロヒンギャは行くことを禁じられている。仕事がない。行ったらどうなるか?アラカンに殺されるだろう。お金がないから1日にコメを半カップぐらいしか食べられない。この惨状を日本の国会議員に伝えてくれ。ここはNGOの支援もない」

食料はどうやって手に入れるのか、と聞くと、難民キャンプのある地区までバスに30分乗って買い出しに行くという。「バス代として1000チャット(約100円)を政府に払う必要がある。食料もタダでもらえるわけではない。お金もないからそう頻繁には行けない」と男性らは口をそろえる。

アウンミンガラーにはおよそ4200人(908世帯)が暮らす。全員がロヒンギャだ。

屋台のカフェに集まるロヒンギャの男性たち。お茶ではなく、チャイを飲む

屋台のカフェに集まるロヒンギャの男性たち。お茶ではなく、チャイを飲む(アウンミンガラー地区)

■マドラサでコーラン学ぶ

意外にも、アウンミンガラーにはマドラサ(イスラム学校)があった。きちんと運営されているようだ。掘っ立て小屋のような周囲の家々と比べ、コンクリート造りの2階建ての学校は立派に映る。

マドラサの教師らは異邦人の突然の来訪を歓迎してくれた。教室に入ってまず目に付いたのは、カラフルなヒジャブ(頭を覆う布)を被る女子生徒たち。ほおにはミャンマーの美容品「タナカ」も塗っている。

このマドラサでは男女約300人の生徒が学ぶ。いくつかのグループに分かれ、コーランを元気良く復唱している。シットウェ中心部の喧騒とは違い、ここには平和な空気が流れていた。

教師は7人。全員が男性だ。ロンジー(腰に巻く布)をはいている。

教師のひとりで、噛みたばこ(クーン)をずっとクチャクチャしていたモハマド・ズーバイスさん(33歳)はこの地区で生まれ、このマドラサで教育を受けた。マドラサの教師になって5年、月給はわずか3万チャット(約3000円)。この金額で妻(専業主婦)と娘2人を養っているという。1日1人当たりに換算するとたったの25円だ。これは、世界銀行が定める貧困ライン1日1ドル90セント(約190円)の8分の1でしかない。

薄給であるにもかかわらずモハマド・ズーバイスさんは、エネルギードリンクの「レッドブル」(700チャット=約70円)を子どもにわざわざ買いに行かせ、私に振る舞ってくれた(冷蔵庫がないため常温)。私が持参したアンズのジュースも開け、飲みながら30分ぐらい話した。

モハマド・ズーバイスさんには、難民としてマレーシアに脱出し、いまはオーストラリアで暮らすきょうだいがいる。お金を送ってくれるのか、と質問すると、「難民だから‥‥(送金はない)。生活はとても大変だけど、私はアウンミンガラーが好き。ロヒンギャは1400年にわたってこの地で暮らしてきた。他国に行きたいとは思わない」。

英語の壁もあって深い話はできなかった。しかし、モハマド・ズーバイスさんが、差別を受けてきたにもかかわらず、ミャンマーに愛着をもっていることは伝わってきた。

マドラサの立派な門構え

マドラサの立派な門構え(アウンミンガラー地区)

マドラサの子どもたち。ヒジャブが美しい

マドラサで学ぶ子どもたち。ヒジャブが美しい(アウンミンガラー地区)

■イマムもロヒンギャ

アウンミンガラーにはマドラサだけでなく、モスクが4つあった。一番立派なモスクには、礼拝の前に手や足を洗う小さな池まで併設されている。

大人の男性たちが夕方、お祈りのためにモスクに続々と集まってきた。イマム(イスラム指導者)もロヒンギャだ。想像に反して、アウンミンガラーには最低限の宗教施設はそろっているようだった。

ただ12年の衝突の爪痕は残っている。カフェで時間をつぶしていた男性モハマド・ユースフさん(32歳)が指で示したのは、荒れ果てたモスクの跡。モスクのひとつは、アラカンに襲撃され、破壊された。モスクの跡のすぐ隣には警官が常駐しているため、モスクはボロボロのまま放置されている。

居住区で一番立派なモスクの中には、身を清めるための池がある。礼拝の前に手足を洗うロヒンギャの男性たち

居住区で一番立派なモスクの中には、身を清めるための池がある。礼拝の前に手足を洗うロヒンギャの男性たち(アウンミンガラー地区)

モスクで礼拝を終え、モスクから出てくるロヒンギャたち。青い服の男性がイマム

モスクで礼拝を終え、モスクから出てくるロヒンギャたち。手前の青い服の男性がイマム(アウンミンガラー地区)

2012年にアラカンに襲撃され、破壊されたモスク。そのまま放置されている。右の青いボックスの中に警官がいる

2012年にアラカンに襲撃され、破壊されたモスク。そのまま放置されている。右の青いボックスの中に警官がいる(アウンミンガラー地区)

■スーチーは嫌いだ!

イスラムを信仰する生活は成り立っていても、やはり貧しい。倒れそうな家々が立ち並ぶ。9月は雨期のため、家の前に「巨大な水たまり」ができているところもあって、外に出るたびに足がびしょ濡れになる。家財道具をほとんどもたない家もある。

アウンミンガラーには、屋台をはじめ、野菜や果物、魚、ロンジー、雑貨、たばこなどを売る小さな店がいくつかあった。モハマド・ユースフさんによると、アラカンが商品を持ってきて、ロヒンギャがそれを仕入れ、アウンミンガラーの中で売るという。ただ繁盛していなさそうだった。

貧しい暮らしとは裏腹に、子どもたちは元気いっぱいだ。アウンミンガラーには子どもがあふれかえっていて、「ハロー」「ワッチュアネーム?」と、嬉しそうに私に話しかけてくる。手をつないでくる子どもも。特筆すべきは、お金をくれ、と言う人たちが大人から子どもまでほぼ皆無だったことだ。

子どもたちの遊び場は路上。男子はコマやサッカーを、女子はゴム段をする。その風景は、仏教徒のミャンマー人の子どもや、昭和の日本と変わらない。上半身裸だったり、ボロボロのTシャツを着た子どもはいたが、そこには宗教対立という緊張感はなく、人間の「日常」が広がっていた。

マドラサの教師であるモハマド・ズーバイスさんは期待を込めて言う。「(国家顧問の)アウンサンスーチーが好き。彼女がいまの状況を変えてくれると信じている」

ロヒンギャはかねて、民主化の旗手アウンサンスーチー氏を支持してきた。だがモハマド・ズーバイスさんをはじめロヒンギャの大人たちは無国籍者。15年11月の議会選挙でも国家民主連盟(NLD)に投票できなかった。

対照的に、アラカンはロヒンギャとの和解を望んでいないようだ。普段は穏やかなホテルの従業員らも、ロヒンギャの話になると「アウンサンスーチーも、コフィー・アナンも嫌い」と深い差別感情をむき出しにする。

ミャンマー政府は先に、ロヒンギャ問題の解決を目指して「特別諮問委員会」を設置した。委員長のコフィー・アナン氏(前国連事務総長)が9月上旬にシットウェを訪問した際、アラカンの一部の人たちが「(ロヒンギャ問題に)外国人は介入するな」と抗議のプラカードを掲げたことは記憶に新しい。

家の軒先で麺を売る女性

家の軒先で麺を売る女性(アウンミンガラー地区)

居住区の中の家。目の前は水たまり

居住区の中の家。目の前は水たまり(アウンミンガラー地区)

ゴム段をして遊ぶロヒンギャの女の子たち

ゴム段をして遊ぶロヒンギャの女の子たち(アウンミンガラー地区)

男の子はコマで遊ぶ

男の子はコマで遊ぶ(アウンミンガラー地区)

韓流スターの似顔絵を描いた凧も店で売っていた

韓流スターの似顔絵を描いた凧も店で売っていた(アウンミンガラー地区)

■対立は英国と日本のせい?

ロヒンギャをなぜ、アラカンは毛嫌いするのか。アラカンの人たちに直接尋ねても「ロヒンギャは危険だから」「理由なんてない」「人口をどんどん増やしているから」といった答えしか返ってこない。

軋轢の理由は、英領時代から現在まで複雑に絡み合った歴史にヒントがみてとれる。

英国がラカイン州を支配し始めたのは1826年。その前からイスラム商人は住んでいたが、植民地化を機に多くのイスラム教徒(ベンガル人)が流入した。英国政府はアラカンの農地をイスラム教徒に与えたとの話もある。

シットウェをはじめとするラカイン州北西部に移り住んだイスラム教徒は、本国に帰らず、土着化した。これによって仏教徒とイスラム教徒の人口バランスが変わり、共存関係が崩れ始めた。

追い打ちをかけたのが第二次世界大戦だ。ミャンマーに侵攻した日本軍が、ラカイン州を英国から奪うため、アラカンを兵士として徴用した。対する英国軍は、イスラム教徒を武装化させ、日本軍を攻撃した。わかりやすくいえば、仏教徒(アラカン)とイスラム教徒(ロヒンギャ)が日英軍の手先となって戦ったわけだ。

ミャンマーは1948年に独立した。だが当初から民族・宗教の融和は進まなかった。また、ラカイン州北西部と国境を接する現在のバングラデシュでは食料不足もあって、多くのイスラム教徒がラカイン州に再び流入。仏教徒とイスラム教徒の軋轢はますます大きくなっていく。

ロヒンギャは、1988年に起きたアウンサンスーチー氏らの民主化運動を支持した。このため当時の軍事政権はロヒンギャの財産を没収した。ロヒンギャを弾圧する軍事政権をアラカンは強く支持するなど、両者の対立は宗教・社会・政治へと広がるばかり。12年にはシットウェで衝突が起きた。特別諮問委員会を発足させたからといって、和解の気配は見えてこない。

仏教徒が9割を占めるミャンマーで、政治的立場(次の選挙)を考えれば、アウンサンスーチー氏といえどもイスラム教徒の肩をもつのは困難だ。ロヒンギャの期待を背負うノーベル平和賞受賞者は、「民主主義(民衆の合意を尊重する)」と「人権」の狭間でどう対処していくのだろうか。

ロヒンギャの子どもたち。この子たちが大人になったとき、この“ゲットー”はなくなっているのだろうか

ロヒンギャの子どもたち。この子たちが大人になったとき、この“ゲットー”はなくなっているのだろうか(アウンミンガラー地区)