「ジャパニーズも被害者だ!」フィリピン・ネグロス島の戦争博物館長が語る第2次世界大戦

0927真鍋くん、22053308_1480557498686817_218438825_nフィリピン・ネグロス島バレンシアの戦争博物館のカタール館長。日本軍兵士が敵に追い込まれ自殺するときの様子を、実際使われたライフルで実演中(2017年9月24日撮影)

「フィリピン人だけではない。ドゥマゲティ(フィリピン・ネグロス島に位置する)に当時いたジャパニーズも大戦の被害者だ」。ネグロス島南部のバレンシアにある戦争博物館のフェリックス・カタール館長(58)はこう断言する。彼の父はネグロス島で日本軍と戦った元ゲリラ兵。9月22日は、ネグロス島南部で日本軍がフィリピン・米国合同軍に降伏した日だ。

フィリピンは300年以上スペインと米国の植民地だった。日本軍の上陸は欧米の植民地支配から脱却するチャンスだと考えるフィリピン人も少なくなかった。

この期待はすぐに裏切られる。カタール氏の父は終戦までの約40日間、日本軍の捕虜だった。首と腰を他の捕虜とロープで結ばれ、軍の重い通信機を持たされながら一列で歩かされた。たどり着いた村で日本軍は、女・子供関係なくそこにいたフィリピン人を捕まえ、高床式住居の柱にくくりつけたり、床の下に這いつくばるよう強要したり、そのうえ住居ごと燃やして皆殺しにした。「(日本軍は)あそこまでフィリピンに残酷にならなくてもよかった」(カタール氏)

しかし、カタール氏はフィリピンにいた日本人も被害者だと強調する。戦死した兵士を慰霊する神社をバレンシアに建てたおがわきゅうじ氏(旧陸軍軍曹)は弟のひでお氏をこの地で亡くしている。日本軍が武器庫として山を掘ってつくったトンネルは出口がなかった。トンネルの奥にいたひでお氏は入口を米軍に塞がれてしまい、逃げ場所をなくした。彼は空爆用の爆弾を爆発させ自殺し、同時にトンネルを崩してそこにあった大量の武器を米軍に奪われることを防いだ。

ひでお氏のように戦争中に命を落とした日本人は多い。しかし戦後もフィリピンに残った日本人やその子孫は不遇に耐えなければならなかった。日系フィリピン人三世のテドイ・テラモト、トミー・テラモト兄弟の祖父は日本占領下のフィリピンにいた憲兵だった。終戦後、日本軍の撤退とともに日本に帰ることができたが、すでにドゥマゲティで妻と息子(兄弟の父)• 娘と家庭を築いていたため、ドゥマゲッティに残ることを決める。しかし敵だった日本人に対するフィリピン社会の目は冷たかった。特に娘(兄弟のおば)は地元のフィリピン人にレイプされた過去を持つ。

カタール氏は、両親をはじめ、多くのフィリピン軍や日本軍の元兵士、また彼らの子孫から戦争の悲惨さを聞いてきた。「戦争は代償が大きすぎる。良いことは何一つない。この普遍の真実を後世に伝えることが戦争博物館の役割だ」

バレンシアにある戦争博物館は、車庫を再利用した小さな場所。第2次大戦中のフィリピン・米国軍、日本軍が使っていた軍服や通信機器、武器が多数展示されている。車庫の外には日本軍が使った戦車がある。