自由を求めコーヒー農家に転身したコロンビア人男性、貧乏脱却のカギは妻の母国・日本市場の開拓

日本人の妻・松尾彩香さんと理想の生活を送るアルレックス・ラミレスさん(左)。生活は苦しいときもあるが、コーヒー作りに奮闘するその表情は明るい(コロンビア・アンティオキア州フレドニア)日本人の妻・松尾彩香さん(右)と理想の生活を送るアルレックス・ラミレスさん(左)。生活は苦しいときもあるが、コーヒー作りに奮闘するその表情は明るい(コロンビア・アンティオキア州フレドニア)

コロンビア第2の都市メデジンの街の生活を捨て、自由な働き方を求めて山奥に移住したコロンビア人男性がいる。メデジンから車で2時間のところにあるフレドニアでコーヒー農園を営むアルレックス・ラミレスさん(38)だ。ところがアルレックスさんの現在の年収はたったの60万8682ペソ(約2万円)。「いまの生活を続けるために絶対必要なのは、(約1年半前に結婚した日本人の)妻のコネクションを生かした日本市場の開拓だ」と望みを託す。

都会で「ひきこもり」

コーヒー作りを始める前、アルレックスさんはひきこもりだった。

アルレックスさんは13年前、大学で電子工学を専攻していた。だが、生まれ育ったメデジンでの生活になじめず、しばしば体調を崩していたという。「都会の生活は苦痛でしかなかった」。メンタル面でも不調をきたし、うつ病も発症した。

大学に通いながらシステムエンジニアの仕事を経験したが、合わなかった。「誰かに雇われて仕事をするのが本当に嫌で。上司に叱責されながら、一日中オフィスの中で働くのも気づまりだった」(アルレックスさん)。25歳のころ大学を中退。メデジンの自宅でひきこもりとなった。

ひきこもり生活がしばらく続いたころ、アルレックスさんに転機が訪れる。父が亡くなったことをきっかけに、定年を目前にした母親がコーヒー農園を始めると言い出したのだ。

アルレックスさんの父はフレドニアの家に住み、コーヒー農園を営んでいた。その家を廃墟にするのはもったいないと考えた母は、父の家に住み、コーヒー農園を続けることにしたのだ。

アルレックスさんは言う。「上司も部下もいない自由な働き方でなければ、自分は生きていけない。理想の働き方ができるのなら、仕事にこだわりはなかった」。メデジンを離れて、母と山奥でのコーヒー作りに挑戦すると決めた。コーヒー作りの経験はゼロ。独学で勉強した。

山奥に移住したおかげでアルレックスさんのうつ病は改善した。体調を崩すこともなくなった。「田舎で働くことができてうれしい。そのおかげで自殺しなかったからね」。山奥で自由な日々を送っていた。

日本人女性と運命の出会い

ところが理想の生活は危機を迎える。農園の運転資金が次第に枯渇。それと軌を一にしてコーヒーのニューヨーク取引価格も下落。経営を圧迫し始めたのだ。

アルレックスさんの農園には当時、5万本のコーヒーの木が植わっていたが、コーヒー1キログラムから得る利益はわずか6200ペソ(約200円)。「コーヒー作りでは生きていけない」。36歳のころ、アルレックスさんはコーヒー作りを諦めようと考えた。

がけっぷちに追い込まれたアルレックスさんにとって幸運だったのは、のちに妻となる日本人女性との出会いだ。アルレックスさんの実家にホームステイしていた松尾彩香さん(31歳)が、アルレックスさんの母の勧めでラミレスさんの農園に訪れた。

農園に遊びにやってきた松尾さんにアルレックスさんは「コーヒーは儲からない。農園を森に帰そうと思う」と話した。だが彩香さんは日本でフレドニアのコーヒーが知られていないこと、環境に配慮した高品質なコーヒーが日本で高く売れることを伝えた。アルレックスさんの考えは変わった。

「妻と出会ったことはラッキーだった」。アルレックスさんと彩香さんはパーマカルチャー(永続的な農業)を取り入れた高品質なコーヒー作りに力を注ぐことにした。栽培するのは、シェイドグロウン(日陰栽培)コーヒーだ。化学肥料の使用量を大きく減らし、日陰でゆっくりと熟させるコーヒーは甘みが強い。自社ブランド「カフェ・ピエドラ・ベルデ(Café Piedra Verde)」も立ち上げた。

収穫したコーヒーを日本で売り込むのは妻・彩香さんの役割だ。日本に帰国したとき、ツイッターでPRして20袋売った。コロンビアでは直接販売でも1万5000ペソ(約490円)でしか売れなかったコーヒーが、日本では2000円で売れた。

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