【ルポ・ミャンマーからの逃亡者を追う①】国境の町タイ・メーソットの経済は死に体だった

現在のリムモエイマーケット(タイ・メーソット)の様子。ほとんどの店が閉まり、客もまばらだ

ミャンマーで軍事クーデターが起きて1年あまり。ganas記者が、多くのミャンマー人が逃れたタイ側の町メーソットを潜入取材しました。「ルポ・ミャンマーからの逃亡者を追う」の第1回。

軍事クーデターですべてを失った

「まもなく(タイの)メーソット国際空港に到着します」

機内放送が流れ、ノックエアのセクシーなキャビンアテンダントが乗客のシートベルトを確認して回る。

私は今、タイ東部にあるミャンマーとの国境の町メーソットに向かっている。飛行機の窓から眼下を見下ろすと、ミャンマーとタイを分かつ細長い川、モエイ川が見える。その川にそって緑、黄色、茶色などカラフルな畑が連なっている。その奥には深い緑に覆われた険しい山々が広がっていた。

現在、多くのミャンマー人がこの山を越え、モエイ川を渡ってタイに不法入国しているという。ミャンマー国軍は2021年2月1日、軍事クーデターを起こした。民主化の象徴であるアウンサンスーチーを拘束し、国の実権を掌握。クーデターに反対する市民に対しては催涙ガスや放水砲、実弾を使って弾圧する。タイへ不法入国するミャンマー人はそんな国軍の弾圧から逃れてきた難民なのだ。

そんな彼らに興味をもったのはひとりのミャンマー人の友人の言葉だった。

「俺は今、とても悲しい。軍事クーデターですべてを失った」

彼の名前はソラワ。クーデターの前まではミャンマー東部のカレン州の州都パアンでNGOの職員として働きながら、英語の学校を運営していた青年だ。生まれ育ったカレン州の村には小学校しかなく、中等教育を受けるため、タイ側にある難民キャンプに“留学”した苦労人。「若い人にそんな辛い思いはさせたくない」と思い立ち、2014年に英語学校を立ち上げたのだった。

だがクーデターを受けて、パアンでもミャンマー国軍と、カレン族の武装組織「カレン民族同盟(KNU)」の争いが激しくなった。ソラワは仕方なくパアンを離れ、実家の村へと帰った。NGOの仕事も失い、少しずつ生徒数を増やしてきた英語学校のプロジェクトもすべて水の泡に。冒頭のセリフはその状況を嘆いたものだ。

ソラワの辛い経験はミャンマー国軍の弾圧に苦しむ何千何万のミャンマー人のひとつの例だろう。そんな彼らの声を少しでも多く聞いて、それを記事にしたい。私はクーデター以降、日に日にその思いが強くなっていった。

だが彼らにどうやってアクセスするのか。ミャンマー国内は今、危険な状況だ。国軍は今、ジャーナリストを血眼になって探している。友人のミャンマー人ジャーナリストもカメラを持って外で写真が撮れないと言っていた。日本人ジャーナリスト(北角裕樹氏)もヤンゴンのインセイン刑務所に収容された。ビルマ語も分からない自分が今、ミャンマーに行って何ができるのか。

そう悩んでいたときに、目に入ったのが、ミャンマー東部の町レイケイコーの空爆のニュースだ。レイケイコーとはカレン州にあるタイ国境の町で、日本政府と日本財団が共同でお金を出し合って開発した地域。そこがミャンマー国軍に空爆されて、多くの難民がタイに逃げたとのことだった。タイ側の国境の町メーソットだったらミャンマー人に会って話が聞けるかもしれない。

私にとってタイは2年住んだ国。ある程度勝手もわかっているし、メーソットには知り合いもいる。何よりミャンマーに入るよりも安全だ。場所としてはこれ以上のところはない。そう思った私は、すぐさまオンラインでタイ行きのチケットを購入した。

知り合いに紹介してもらったフィクサーの人はいるが、取材アポはほとんどない。取材自体は成り立つのか。期待と不安が交錯する中、ノックエアーの機体はメーソット国際空港に着陸した。タラップを降りると、乾燥した大地に強い日差しが照り付けている。乾季ど真ん中の1月31日、10日間の取材が始まった。

怪しまれるマッチョ記者

「違うんだ。怪しいものじゃない。ほら正真正銘の記者でしょ?」

私はこういって名刺を差し出した。メーソット国際空港に到着してそうそう、私は到着ロビーである青年に言い訳をしていた。彼の名前はブワイ。この地域一帯に多いカレン族で、スゴーカレン語、英語、ビルマ語を使いこなす秀才だ。今回の取材のフィクサーを務めてくれることになっていた。

メッセンジャーで連絡は取りあっていたものの、会うのはこれが初めて。ブワイは明らかに私を見て怪しんでいた。無理もない。ひげにロン毛、広い肩幅が記者という職業とは大きくかけ離れていたからだ。

私はもともとスポーツ選手のトレーニングを指導する「ストレングスコーチ」を生業にしてきた。記者とはいうものの、ganasで記事を書き始めてまだ4年足らず。10年以上のキャリアを積み重ねたストレングスコーチの風貌がまだ抜けていない。

だからだろう。ブワイは目の前に現れた威圧感のある日本人を怪しんでいた。私はパスポートや名刺、今まで書いた記事を見せながら自分の身分を必死に説明した。ブワイは慌てて自己弁解をする私がおかしかったのか、笑みを浮かべながら「大丈夫」と言って、私を彼のバイクまで連れて行ってくれた。

「これからどこか行きたいことある?」

ブワイが私にこう尋ねる。逃げてきたミャンマー人に会って話を聞きたいのはやまやまだったが、まずは閉鎖された国境が今どうなっているのかこの目で見たかった。私は、ブワイに国境を流れるモエイ川に行きたいと伝える。私をバイクに乗せたブワイは、西へと走り出した。

ゲートが閉まった入管(タイ・メーソット)

ゲートが閉まった入管(タイ・メーソット)

タイとミャンマーの国境を流れるモエイ川沿いに建つモニュメント。周りには有刺鉄線が巻き付けられている(タイ・メーソット)

タイとミャンマーの国境を流れるモエイ川沿いに建つモニュメント。周りには有刺鉄線が巻き付けられている(タイ・メーソット)

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