【アフリカ風来坊・林達雄②】タイのカンボジア難民キャンプで青春を謳歌!から一転、援助のジレンマを感じてうつ再発

小型のレントゲン撮影機を使ってカンボジア難民のレントゲンを撮るようす。難民キャンプ内の村を毎日3カ所ほど巡回した。レッドヒル難民村で。写真は日本国際ボランティアセンター(JVC)提供

高床式の家で宴会

このころの難民キャンプでは、国連機関や欧米のNGOから派遣された若者たちが食料配布や教育支援にあたっていた。週末になると誰かの家に集まっては宴会をしていた。

連絡には無線機をつかった。普段は、難民キャンプを出入りする際の安全確認や緊急退避用であるが、悟られないよう合言葉をつかって、宴会を開く連絡をとりあった。

林氏が所属するJVCの宴会は好評だった。レントゲン技師のタイ人が、どこからか集めたモミ殻を燃やして鶏の丸焼きをつくってくれた。エルビス・プレスリーなどの曲をかけて踊り、焚火を飛び越えたり、コメを原料にしたタイの密造酒サートーやウイスキーを飲んだり。ダンシング・キングと呼ばれた林氏だった。

「サートーはマッコリのように甘酸っぱくて美味しかった。10バーツ(当時のレートで約100円くらい)で何本も買えるくらい安いので毎日2本くらいに飲んでいた」と林氏。後にアメーバー赤痢を患うことになる。

アメーバー赤痢にかかると、下痢や粘血便が出て、トイレに30分に1回くらい行かなければならない。林氏は、特効薬をあえてのまずに2~3日我慢した。ちょうどバンコクにあるマヒドン大学で感染症を学んでいたので、実際に顕微鏡で見てみたかったのだ。「小さいクラゲのようなアメーバーが泳いでいた」(林氏)

援助に意味があるのか

ある日、林氏ら3人がランドクルーザーである難民村を訪れると、なんだか雰囲気が暗い。黒い農民服を着た村人たちが緊張した面持ちで静まりかえっていた。彼らは、カンボジアにいたときにポル・ポト派に強制労働させられていた人たちだった。

林氏は「ポル・ポト派の兵士がどこかに隠れているか、村人の中に紛れ込んでいるのかもしれない」と肌で感じた。後に、村人が兵士から脅され食料などを奪われているという話は難民キャンプでは暗黙裏であると知った。

それを裏付けるように、夜になると林氏の耳にも遠く砲撃音が聞こえていた。難民キャンプに潜む残党をカンボジア側から攻撃していたのだ。

砲撃はときに難民村をも破壊した。難民キャンプの医療センターには高度な手術のできる設備がなく、負傷者は少し離れた国際赤十字病院に搬送されていった。

「自分たちがここで食料を配り、医療を提供している限り、残党たちは生き延びて内戦は永遠に終わらない。こんなこと続けて意味があるのか」。善と信じていた援助の負の側面を見た思いだった。林氏の気分は再び落ち込むようになった。

初めは3カ月間だけやってみようと思ったカンボジア難民キャンプでの活動は、何度も更新して1年半に延びていた。このタイミングで、JVCの当時代表務めていた岩崎駿介氏から1本の電話がかかってきた。「エチオピアに行けるかどうか、明日までに返事をくれないか」という打診だった。

思えば、難民村を巡回してレントゲン診断をする仕事は林氏にとって面白みに欠けていた。自分で医療救援を一から立ち上げてみたい、未知のアフリカに行きたい!

翌日、林氏は「行きます」と答えていた。

やっと手に入れたタイでの生活を手放すことにした林氏。エチオピアで想像を超える体験が待っていることは知るよしもなかった。

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