海外に自分の居場所があった! コロンビア18年の日本語教師・羽田野香里さんの生き方

コロンビア・メデジンにオープンさせた日本文化センター「春のひなた」をバックにポーズをとる羽田野香里さん(中央)。左はニコラス・モレノさん、右は合気道を教えるアンヘリカ・ヒメネスさん

「海外への移住で生き方は変えられる」。これはコロンビア第2の都市メデジンにある、日本語を核に合気道や日本料理を学べる日本文化センター「春のひなた」の共同代表を務める羽田野香里さん(51歳)の言葉だ。羽田野さんは2002年から、南米を中心に23年にわたって日本語を教えてきた経験を持つ。

26歳で日本脱出

羽田野さんは北海道小樽市で育った。幼いころは「自閉的で絵本をよく読む子どもだった」と振り返る。日本では漠然とした生きづらさを感じる一方で、絵本で見る世界は広く、世界のどこかほかに自分の居場所があるのではと思っていたという。

札幌市の北星学園大学を卒業した後、羽田野さんは北海道寿都(すっつ)郡にある児童養護施設に就職。児童指導員として4年働いた。だが学びも多かった半面、厳格なルールに従って子どもを叱らなければならないことへの違和感もあった。加えて、宿直や突発的な問題への対応による深夜勤務。体力的にも精神的にも疲労が蓄積する日々が続いた。

「自分の居場所は日本以外の場所にあるかもしれない」。こう考えた羽田野さんは26歳のとき、児童養護施設を退職。たまたま実家の近所に住んでいたマダガスカル人の紹介で、アフリカ大陸の東に浮かぶマダガスカルに飛んだ。

2カ月滞在した。日本語学校を訪問した際、日本語教師が全員マダガスカル人だったことに驚いた羽田野さん。「日本語教師になれば、(日本を脱出して)海外で働けるのでは」と思い立ち、札幌に戻った後、日本語教師を育成する学校に入った。

2001年に日本語教師の資格を取得。すぐに、国際協力機構(JICA)の日系社会ボランティアの日本語教師の職種に応募し、翌年には南米パラグアイ南部の日本人移住地のひとつであるカピタンバードへ渡った。初めての海外暮らしだったが、「(不安よりむしろ)楽しみだった。『やっと』という気持ちが強かった」と羽田野さんは当時の心境を語る。

アニメ好きに囲まれ幸せな日々

2年後に日本にいったん帰国してからは、JICAの青年海外協力隊(職種:青少年活動)でコロンビア中部のマニサレスで活動したり、フィリピン・ルソン島の南カマリネス州にある日本語学校で日本語教師をしたりした。ただ「スペイン語圏の国で日本語を教えたい」との思いは捨てられない。羽田野さんはコロンビアでの就職活動を始める。

念願かなって2009年に、メデジンにあるEAFIT大学言語センターに就職。以後12年にわたり日本語コースで教鞭をとる。「メデジンで日本語を学ぶコロンビア人はシャイだったり、アニメやマンガが好きないわゆる“オタク”気質だったり、と自分に近いなと感じた」(羽田野さん)

EAFIT大学で日本語を教えるかたわら、羽田野さんは、日本に興味のあるコロンビア人を集めて「メデジン日本クラブ」を立ち上げた。活動の一環として、日本語スピーチコンテストや、折り紙をはじめ日本文化のワークショップなどを開催。日本語や日本文化をメデジンで広めながら、同時に友人の輪も広げていった。

日本好きのコロンビアの若者たちに囲まれ、平日は日本語を教え、週末は日本文化を伝える。「常春の街」の愛称をもつ、気候的にも居心地の良いメデジンで羽田野さんは充実した日々を過ごす。日本へ一時帰国した際も「メデジンに早く帰りたいな」と思うほど、メデジンはすでに、羽田野さんの居場所になっていた。

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