ミャンマー国軍の空爆でタイに逃れた農家の女性、1年8カ月は「逃避行・不法入国・詐欺」の日々

ミャンマーで内戦に巻き込まれたラセワさん(39歳)。カヤー州での戦闘・空爆から逃げ続ける日々からタイへ脱出。滞在許可証を持たないミャンマー難民であるため、避難先のタイでは差別や搾取に苦しむことに

2021年2月の軍事クーデターを嚆矢に内戦が激化したミャンマー。激戦地のひとつ、カヤー(カレンニー)州の州都ロイコーで2023年12月に国軍から激しい空爆を受け、現在はタイ・チェンマイで暮らす女性がいる。農家出身のラセワさん(39歳、女性)だ。「生き残ることだけを考えて必死に逃げ回った。タイに来てからも差別が苦しく、今も先が見えない」と塗炭の苦しみは終わらない。

「6畳ほどの民家の地下室をシェルターの代わりにして避難した。20人ぐらいが息を殺して空爆が収まるのをひたすら待った。3日間を、スナック菓子と井戸水だけで過ごした」

ミャンマー国軍によるロイコー空爆に怯えていた3日間のようすをラセワさんはこう語る。

国軍の空爆は、カヤー州を拠点とする民主派の武装グループ「カレンニー民族防衛隊(KNDF)」の壊滅を名目としていた。だが実際は住宅地も無差別に攻撃されたという。

故郷は「デモソの戦い」の戦場に

ラセワさんは1986年、ロイコーの近くの町デモソで生まれた。ロイコーの高校を卒業して以降、デモソ郊外にある実家で静かに暮らしていた。

両親は早くに亡くなった。きょうだいはラセワさんを含めて10人。だがラセワさん以外は実家を離れた。ラセワさんはひとりでコメを作り続けていた。

平穏な日々を突如破壊したのが、2021年2月に国軍が起こしたクーデターだった。国軍に対する市民の抗議運動は瞬く間に全国に広がっていく。ラセワさんもクーデターで民政を一夜にしてひっくり返した国軍に憤りを感じていた。

「抗議運動には共感する。ただ一刻も早く争いが収まって平和になるほうが大事だった。それをひたすら神に祈っていた」。ちなみにラセワさんはキリスト教徒だ。カヤー州はキリスト教徒が多い地域で、その数は仏教徒と同じぐらいだという。

抗議運動はラセワさんの願いとは裏腹に激しさを増していく。2021年の5月に入ると、国軍は市民に向かって発砲。死者も出るようになった。民主派側が樹立した国民統一政府(NUG)は、武力で国軍に対抗しようと「人民防衛軍(PDF)」を組織し、地方の武装グループと連携を進めた。

ラサワさんの住むカヤー州ではKNDFが結成された。KNDFの兵力は2024年9月20日時点で約8000人。武装するのはうち2000~3000人といわれる。

KNDFと国軍は2021年5月、デモソで衝突した。「デモソの戦い」と呼ばれるほどの激しい戦闘だった。内戦はそれ以来、泥沼化していった。

戦火を逃れ転々とする日々

ラサワさんは2023年12月、家の近くに入院していた親せきをお見舞いに行こうとしていた。その時、KNDFと国軍が目の前で銃撃戦を始めた。慌てて病院に駆け込み、その後2カ月にわたって病院に閉じ込められた。

病院を出て、隣のワパブロ村に避難する。ここには多くの避難民が身を寄せるキャンプと、前線を支えるKNDFの医療チームがあった。「医療チームの中には故郷を離れてホームシックに陥る人もたくさんいた。彼らのために私は炊事を手伝った」

ワパブロ村では、大量に押し寄せた避難民と村人との間で摩擦が起きていた。村人に追い出される形でラサワさんらは近くのルカティ村に移ることに。ラセワさんはそこで姪とその3歳の子どもと合流する。「避難につきまとう心細さも、ひとりでなれば救われると思った」

ところがルカティ村にも銃撃戦の火の手が及んできた。3人は寺に逃げることに決める。姪親子は先に車で移動。ラセワさんはバイクに乗って後を追おうとした。だがその道は、国軍兵士のスナイパーライフルの射程内にあるとわかり、泣く泣く行くのをやめた。

姪親子と離れ離れになってしまった。「またひとりになってしまった。寂しさが込み上げてきた」とラセワさんは当時を思い出し、涙を浮かべる。

ラサワさんはロイコーへ行った。そこで見知らぬ人たちと避難することになる。しかし待ち受けていたのは、冒頭に書いた国軍の空爆だった。

カヤー州・デモソ郊外の自宅。ひとり静かに農業をする生活は、2021年の軍事クーデターで奪われた。デモソは、国軍と民主派側の「カレンニー民族防衛隊(KNDF)」が激しい戦闘を繰り広げた場所

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