途上国の「外国人料金」の正当性を考える、差別か国際貢献か?

ミャンマーの庶民の足「サイカー」。自転車の脇に車輪付きの荷台を付けただけの簡易な乗り物。外国人用料金は最低1000チャット(約100円)から。地元の人はもっと安く利用している

途上国で暮らすと大変なことのひとつに現地の人との値段交渉がある。タクシーに乗るときや市場で日用品を買うときなど、外国人向けの割高料金を提示されることは多い。同じ品物、同じサービスなのに、外国人だけが高い料金を求められるのはなぜなのか。

■「微笑みの国」、でも外国人には割高

「外国人料金」といっても、その内容は大きく2つに分けられる。ひとつは仕組みとして外国人料金が決められている場合。観光施設の入場料やホテル代などがそれに当たる。ただ値段が定まっている分、安心ともいえる。

面倒なのは個人営業の店や物売りが外国人料金を請求してくるパターンだ。うまく交渉すれば安く買えることもあるが、現地の相場を知らず、言葉が不自由な外国人にとって値切るのは難儀だ。

外国人料金を持ち出す代表格がタクシーやサイカー(人力車)などフリーの運転手。これは、私が暮らすミャンマーの最大都市ヤンゴンでも例外ではない。「微笑みの国」と形容されるようにミャンマー人は概して人が良く、他のアジアの途上国であるような外国人への極端な「ぼったくり」は少ない。

だがそれでも外国人と接する機会の多いタクシー運転手たちは、ミャンマー人なら2000チャット(約200円)で移動できる距離を、外国人には安くて3000チャット(約300円)、ひどいと5000~6000チャット(500~600円)と値段を吊り上げる。外国人客の利用が多い土産物屋やマッサージ店なども「スマイルとビジネスは別!」と言わんばかりに割高な料金を突き付けられる。

■富める者と貧しい者、値段の違いは当然?

厄介なこの外国人料金とどう付き合えばいいのか。友人のマウン・ティンさん(ミャンマーと中国の国境付近に住む少数民族カチン)は、国籍はミャンマーだがヤンゴン出身でないことから「外国人料金」のターゲットになるという。でも「価格差はあってしかるべき」という考えの持ち主だ。

「ミャンマー、特にヤンゴンでは、外国人だけでなく少数民族も割高料金の対象になる。ヤンゴンで大多数を占めるビルマ族は外国人を差別しているわけではない。身なりや容姿からその人の経済状況を判断し、見合った額を請求しているだけ。1日の収入が3600チャット(約360円=ミャンマーの平均日収)の人と、100ドル(約1万2000円)の人が払う金額が同じほうがおかしいと思う」

売り手からすれば、割高価格を請求して儲けを増やしたいのは当たり前。また、マウン・ティンさんの言うように、途上国の外国人料金の背景には「富める者は与えるべし」という価値観もあるに違いない。ミャンマーに限れば日常的にモノやお金を寄付する「施しの文化」が根付いており、ミャンマー人はひょっとして割高の外国人料金にこの施しを重ねあわせているのかもしれない。

ミャンマー・ヤンゴン市中心部の観光地「ボージョ・アウンサン・マーケット」。観光客がひっきりなしに訪れる土産物屋では外国人価格は当たり前。写真のロンジー(ミャンマーの民族衣装)の言い値は1万3000チャット(約1300円)。9000チャットまで値引き可能だが、現地の相場は4000〜5000チャット(400円~500円)ほどだ

ヤンゴン市心部の観光地「ボージョ・アウンサン・マーケット」。観光客がひっきりなしに訪れる土産物屋では外国人価格は当たり前。写真のロンジー(ミャンマーの民族衣装)の言い値は1万3000チャット(約1300円)。9000チャットまで値引き可能だが、現地の相場は4000〜5000チャット(400円~500円)

■あるがままを受け入れる? 割り切りも大切

途上国だからといわれても私は正直、外国人の足元をみたあからさまな「ぼったくり」は受け入れたくない。ただ、少々高い金額であれば「国際貢献の一種」ととらえられないだろうか。購買力が圧倒的に低い途上国では、商品やサービスの単価を安くして数をさばかないと商売は成り立たない。こう考えると、相対的に裕福で購買力のある外国人を相手に割高価格でモノを売るのは「合理的」でうまい戦略だ。

途上国でぼったくりの被害にあったらどうするか。私の意見はこうだ。割高料金を払ったところで、日本円で数百円、せいぜい千円くらいだ。相手は自分より何倍も貧しいはず。だとすれば、現地の相場と外国人料金の差額はチップのような感じで、わずかだがその国に貢献したことになるのではないか。ミャンマー流にいえば「与えることで徳を得る」だ。

誰だって割高料金は払いたくない。しかし長期にわたって途上国で生活し、現地の人と接していると「自分ではどうにもできないこともある。こんなものか」と諦めにもみた寛容さが身につくから不思議だ。