喜捨は身を助く? ミャンマー人はなぜ寄付するのか

ヤンゴン中心部の商店街で早朝、托鉢に向かう修行僧。寄付文化が深く浸透しているミャンマーでは多くの市民が喜捨をする

あずき色の袈裟を身にまとい、小鉢を抱えた修行僧が軒下を訪ね、食べ物や金銭のお布施を呼びかける。ミャンマーで早朝よく見かける托鉢の風景だ。

国民の9割が日常的に何らかの寄付(僧侶へのお布施を含む)をする寄付大国ミャンマー。大都市ヤンゴンをはじめ発展著しいとはいえ、ミャンマーはいまだ1日の最低賃金が3600チャット(約360円)という世界でも最貧国のひとつだ。そんな人々がなぜ身銭を切ってまで寄付をするのか。ミャンマーの寄付文化について考えてみた。

仏教徒(上座部仏教)が国民の9割(総人口は5000万人)を占めるミャンマーで寄付は、市民にとって生活の一部といっていいほどポピュラー。来世での生まれ変わり(輪廻)を信じるミャンマー人(ここではビルマ族)は、現世で良い行いをすることが奨励される。代表的なのが、仏につかえる修行僧へのお布施だ。上座部仏教の用語でこれを「ザーナ」と呼ぶ。

慈悲の心から来る行為と思われがちなザーナだが、ミャンマー人に聞いてみると「功徳を積むため」と答えることが多い。つまり現世で良い行いをして、来世で自分が良い立場で生まれることを期待してザーナをするわけだ。

僧侶へのザーナだけでなく、一般的な寄付・他者への奉仕活動にもミャンマー人は熱心だ。「親せきの家に子どもが生まれた」「知り合いが仕事を辞めたらしい」「近所の子どもが出家した」…。何かイベントごとがあるたびに巾着袋を片手に寄付集めに奔走する。

私も職場(ヤンゴンにある公的機関)の同僚やアパートの住人などに寄付を求められることが多々ある。無下に断るわけにもいかないので、赴任当初はいくらか寄付をしていた。しかし私が外国人だからか、毎週のように寄付に来られるのはさすがに良い気はしない。

不思議だったのは寄付を乞う時のミャンマー人の姿勢だ。乞うというより、あたかもこちらの当然の義務であるかのようにふるまう。寄付を渋るものなら、いかに寄付が尊いものであるか説法を始める者もいる。

また、寄付を受けた側は特に感謝するわけでもない。ザーナを例にとると、お布施を受ける側の僧侶は普通、感謝の言葉を口にしない。稀に啓典の一節を唱えるが、ザーナを受けたらそそくさと次の信者のところへ行く。一体、ミャンマー人にとってザーナとはどういうものなのか。

ミャンマー人にこんな話を聞いたことがある。「ザーナはモノを単に恵む一方的な行為に見えるが、実際は違う。ザーナをする側は自分の良い将来を期待して食べ物やお金を差し出し、それを受け取る側は相手が功徳を積む機会を提供した見返りに寄付を得る。完全なギブアンドテイクなんだよ」

この話を聞いて「ギブアンドテイク」の考えに基づく寄付文化こそが、ミャンマー人の慈悲深さ・寛容な精神を生んでいるのはと思った。ミャンマー人のほとんどは身分、年齢、性別に関係なく、他人に自らの持ち物(財産、労働力、食べ物など)を他人へ分け与えることをいとわない。ミャンマー人(特にビルマ族)にとって、寄付することは自分が仏教徒であることを確認できる一番の瞬間に違いない。

もっといえば、日頃から他人に寄付し、便宜を図っておけば、いざ自分や家族の身に何かあったときに助けてもらえる。僧侶へのザーナを別にして、実際、何らかの寄付を受けたら暗黙の了解で相手に返すことが多いようだ。ミャンマーで寄付文化が根付いている背景には仏教の教えのほかに、こうした実利的な理由もあるのだろう。

功徳を積むため、もしもの時の貸し作り、純粋無償の寄付…。目的はいろいろあれ、ミャンマー人の寄付の根本にあるのは他者への奉仕の精神。ミャンマーが「微笑みの国」といわれる由縁はこんなところにあるのかもしれない。