コロナ禍で経営難に陥ったルワンダのNGOスクール、打開策は子どもの親に手に職をつけさせること 

マンダジ(揚げドーナツ)とチャパティを店に卸して稼げるようになった保護者と永遠瑠(とわり)マリールイズさん(左)。ルワンダ・キガリで撮影マンダジ(揚げドーナツ)とチャパティを店に卸して稼げるようになった保護者と永遠瑠(とわり)マリールイズさん(左)。ルワンダ・キガリで撮影

親を助ける=子どもを助ける

マリールイズさんはまた、別のシングルマザーに、マンダジやチャパティなどを近くの店に卸すビジネスを拡大するための費用10万ルワンダフランを貸した。その女性はマンダジなどの作り方を2カ月の研修で学んだ。その研修は、ドイツ大使館が資金を出し、ウムチョムイーザ学園とルワンダのNGOが協力して実施したものだ。

研修のおかげでこのシングルマザーはマンダジやチャパティを近くの店に卸し始め、稼げるように。3人の子どもの学費を少しずつ払えるようになった。

シングルマザーたちが少しのサポートで少しずつ稼げるようになった姿を見てきたマリールイズさん。「手に職さえあれば、困窮しているシングルマザーも自分で稼いで、事態を打開できるという証明になった。資金があるなら、仕事をしたいシングルマザーたちを引き続き助けていきたい」と語る。

稼げるように保護者を助けることは、学び続けられるように子どもたちを助けることに通ずる。これはマリールイズさんの悲願。「親が自立すれば、子どもたちの学費を払える。親の収入で子どもたちが安心して暮らせるように願っている」と話す。

3.11ではルワンダコーヒー配る

マリールイズさんは、実はこれまで自分の力ではどうにもならない災難を2度乗り越えてきた経験の持ち主だ。

1つ目は、1994年4月にルワンダで起きた大虐殺。キガリからコンゴ民主共和国のゴマキャンプまでの約200キロメートルの道を、着の身着のまま、子どもたちとなんとか命をつなぎに逃げた。

「とにかく子どもとはぐれないよう、キテンゲ(アフリカ布)を背中に巻いて、一番小さな子をおぶった。左右それぞれの手で、もう2人の子どもの手をしっかりと握り、必死に逃げた」(マリールイズさん)

2つ目は、2011年3月11日に起きた東日本大震災。マリールイズさんも1994年12月から暮らす福島市で被災した。

「私は地震が起きた日、福島駅の複合施設で確定申告書を作成していた。揺れがひどく、本当に怖かった。なんとか帰宅できたけれど、家の中はすべてのものがひっくり返っていた。電気も水道も止まっていた。その晩は、次女と車の中で過ごした」(マリールイズさん)

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、ルワンダ大使館から避難勧告がきた。だがマリールイズさんはとどまった。震災が発生してから27日目にはルワンダコーヒーや紅茶、手作りクッキーを持って、福島県内の避難所を回った。

「福島は第2の故郷」。こう語るマリールイズさんは2012年、日本国籍を取得。名前を永遠瑠マリールイズとした。ルワンダを永遠に忘れないという意味を込めた。

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