【あるミャンマー政治犯の1年(後編)】投獄・拷問・懲役‥‥でも民主化は諦めない

ミャンマー・ヤンゴンのインセイン刑務所に収容されていた時に自分の囚人番号を書きこむジンココミャンマー・ヤンゴンのインセイン刑務所に収容されていた時に自分の囚人番号を書きこむジンココ

6万7000円で再びタイへ

拘束されて5カ月が経った10月19日、ジンココは突如、釈放された。国際社会の目を気にした国軍が政治犯に恩赦を与えたのだ。ジンココは家族のもとに帰り、心と身体を休めた。

しかし数日後、事態は急展開を迎える。国軍が釈放した政治犯をまた逮捕し始めたのだ。ジンココが捕まるのも時間の問題。もう2度とシュエピタ尋問センターやインセイン刑務所には戻りたくない。こう思ったジンココは家族のもとを離れ、住み慣れたタイに戻ることを決意する。

家族との別れもしっかりできぬまま、ジンココは10月24日、タイとの国境の町ミャワディーに向かった。当時、新型コロナやクーデターのせいでミャワディーの国境は封鎖されていた。だがお金を積めば違法に入国できることを知っていたジンココは、ミャワディーのバス停に着くと、周りの人に尋ね、違法越境の橋渡し役を見つけた。

不法入国の費用は1万9000バーツ(約6万7000円)。ずっと貧しい生活をしてきたジンココに払える金額ではなかったが、ローンを組むことが可能だった。タイで働いた給料から月々支払うという約束で、ジンココは夜、ミャンマーとタイの国境を流れるモエイ川をボートで渡った。

川を渡った後の移動手段は徒歩。ミャワディーからバンコク近郊の町まで直線距離でも約200キロメートルの道のりだ。タイの警察に捕まらないよう、険しい山の中を歩いた。

一緒に不法入国したのは老若男女70人ほどのミャンマー人たちだ。橋渡し役は1日1日、人が入れ替わりながら道を先導していく。ジンココはタイのインスタントヌードル「ママー」をそのままかじりながら、森をかきわけていった。

歩き続けて4日後、ジンココはバンコクの近くの地方都市にたどり着いた。そこから用意されたバスに乗り換え、バンコクへ。その後、バスを乗り継ぎ12月初旬、ついに慣れ親しんだプーケットに帰ってきた。

民主化へのラストチャンス

ジンココはデザイナーとして、かつて勤めていたタトゥーショップに戻った。ジンココの人柄や働きぶりを知るスタッフは出戻った彼を快く迎え入れてくれたという。タイ政府も2021年の後半から少しずつ観光客を受け入れ始め、プーケットは活気を取り戻しつつあった。

仕事をするのはもちろん家族のため。約1万バーツ(約3万5000円)の給料の半分近い4000バーツ(約1万4000円)を毎月家族に仕送りする。

「ミャンマーでは今仕事がなく、生活するのも苦しい。プーケットで働けて、家族を支えられるだけ自分は恵まれている」とジンココは前を向く。

PDFへのサポートも欠かさない。1000バーツ(約3500円)を毎月寄付する。橋渡し役へのローンが毎月3000バーツ(約1万円)あるので、2000バーツ(約7000円)しか手元に残らない。食べていくので精一杯。それでもジンココはPDFへ寄付し続ける。

「友人はデモをしたり、PDFに参加するなどして、危険を冒して国軍と戦っている。自分もプーケットから彼らを支援したい。今できるのはできるだけ稼いで彼らに寄付すること」

友人の死、拷問、投獄、懲役、徒歩での国外脱出。苦しみ続けたジンココだが、国軍への抵抗を辞める気はさらさらない。その裏には「このチャンス」を逃してはダメだという強い思いがある。

「ミャンマーではこれまでに1988年、2007年と革命の(民主化する)チャンスがあった。だがいまだに国軍の支配は続いている。今回の春の革命にも失敗したら、民主的なミャンマーは一生かえってこない。だから今、国軍を打倒し、負の歴史に終止符を打たないといけない。それまで僕はここで闘い続ける」(終わり)

タトゥーショップでデザインを考え中のジンココ(タイ・プーケット)

タトゥーショップでデザインを考え中のジンココ(タイ・プーケット)

ジンココが考えたタトゥーのデザイン

ジンココが考えたタトゥーのデザイン

客足が少しずつ戻ってきたタイ・プーケットのパトンビーチ

客足が少しずつ戻ってきたタイ・プーケットのパトンビーチ

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