61歳のベネズエラ難民が語る! コロンビアの“元最恐スラム”で生き抜く術

0902コムナ13コロンビアのメデジンで最も危険といわれた元スラム街「コムナ13」で商売するベネズエラ難民のグレーニスさん。コムナ13は斜面にあるため、グレーニスさんは商品を担いで毎日そこを上り下りする。坂を30〜40分ほど歩いてメデジンの街並みを一望できる場所に屋台の店を構える

「ベネズエラにいたときの生活よりも劇的に豊かになった」。笑顔でこう話すのは、ベネズエラ第2の都市マラカイボから、コロンビア第2の都市メデジンへ逃れてきたグレーニス・カリダーディ(61)さんだ。エバンジェリズム(福音派)の信者であるグレーニスさんは、聖書の教えを原動力に地道に収入を増やしてきた。

経済危機でガリガリだった

グレーニスさんは6年前、無一文でメデジンにやってきた。「お金や服、食料を持ってきたかったけれど、もう手元になかった」と当時の厳しい状況を語る。

グレーニスさんはマラカイボにいたとき、ミッション系の学校で教鞭をとりながら、夫、娘、娘の夫と一緒に暮らしていた。ところが2013年ごろからベネズエラ経済は崩壊し始める。その2年後、グレーニスさんが48歳のとき、夫と死別。その後、娘が妊娠。生活費が尽きて困窮したグレーニスさん一家は、祖国を出ることを決める。

ベネズエラ時代の月収はわずか10ドル(現在のレートで約1460円)だった。最低限の食費、光熱費、孫の養育費で消えた。歯磨き粉や歯ブラシ、せっけん、洗剤、衣類などの日用品は買えなかった。

また、食事も肉や魚は食べられず、コメや豆ばかりで栄養不足に。「ガリガリだった」とグレーニスさんは振り返る。

避難先は「世界一革新的な街」

グレーニスさん一家が祖国を出てたどり着いた先は、かつて“最恐のスラム”と呼ばれた、コロンビアのコムナ13(13区)だった。

コムナ13は1990年代、政府軍、左派ゲリラ、右派ゲリラ、ギャング、麻薬カルテルのあいだの抗争で毎日のように流血騒ぎが起きていた場所だ。コムナ13があるメデジンは「世界で最も危険な都市」と当時いわれていた。

だがメデジンは2013年、貧国地区と中心部を通勤・通学用のロープウェーで結ぶといった活動が評価され、ウォールストリート・ジャーナルとシティグループが実施した「世界で最も革新的な都市」コンテストで1位に選ばれた。20数年間で治安は改善し、観光客が集まる街へと変貌を遂げた。

コムナ13は、スラムの一部を観光地化したところだ。急な坂の両脇には、巨大な壁画が描かれ、ヒップホップにあわせて地元の若者たちが踊り、また土産物屋が並ぶなど、カオスな雰囲気を醸し出している。メデジン屈指の観光スポットで、外国人観光客も多く訪れる。

グレーニスさんは、コムナ13の一角にパラソルを張って、その下に置かれたテーブルの上に商品を並べて販売している。コムナ13にやってきた当初は、ミネラルウォーターやキャラメルなどを売っていた。ミネラルウォーターは街の中心部で買い、それをケースごと肩で担ぎ、坂を上っていたという。「重いし、坂は急だし、体が痛くて大変だった」とグレーニスさんは語る。

母の苦労を目の当たりにした娘が心配し、乳母車をどこからか調達してきた。グレーニスさんは乳母車に商品を入れ、坂を上り下りするようになった。「だいぶ楽になった」

だがその乳母車が壊れる。グレーニスさんの娘は、今度はわが子を乗せていた乳母車を母のグレーニスさんに「これを使って」と差し出した。その申し出に最初は躊躇していたグレーニスさんだが、背に腹は代えられず使うことに。

ただ還暦のグレーニスさんにとって重い水をいつまでも運ぶのは厳しい。現在はヘアバンド、編み物、布のかばん、雑貨など「軽い商品」に変えた。手にする利益は1カ月に60万ペソ(約2万1300円)。ベネズエラ時代の約1460円から約15倍に増えた。

1 2