【闘うカレー活動家・保芦ヒロスケさん①】レトルトのミャンマーカレーを開発! 目指すは両国つなぐフードアンバサダー

ヤンゴンにあるシュエダゴンパゴダの前でお祈りする保芦さん。保芦さんは2011年に初めてミャンマーを訪問。2016年に移住した(保芦さん提供)ヤンゴンにあるシュエダゴンパゴダの前でお祈りする保芦さん。保芦さんは2011年に初めてミャンマーを訪問。2016年に移住した(保芦さん提供)

ミャンマーでは缶詰カレー

チェッターヒンのビジネスは軌道に乗ったが、保芦さんは日本で店を出す気はなかった。ミャンマーに将来住みたかったからだ。

保芦さんは2016年、念願だったヤンゴンに移住。今度はミャンマーで現地の人向けのレトルトカレーを販売しようと商品開発に乗り出した。

だが簡単にはいかない。ミャンマーにはレトルトカレーもなければ、レトルト食品を作る工場もないからだ。ミャンマー人の友人は「工場を作れ」と言う。だがそんなお金はひっくり返っても出てこない。

どうしようかと悩んでいた時に、保芦さんはヤンゴンから70キロメートル離れたバゴーに缶詰工場があるのを知った。「缶詰のレトルトカレーなら販売できる」

こう考えた保芦さんは工場のオーナーと交渉。工場のキッチンでカレーを調理し、それを缶詰に詰める行程を作り上げた。

ミャンマー人の口に合う味付けにもこだわった。ミャンマーカレーはインドカレーと違ってスパイスが少ない。保芦さんは友人からアドバイスをもらい、スパイスを減らして油を多めにしたミャンマー風の味付けに修正していった。

できあがったレトルトカレーの缶詰には、保芦さんの顔のイラストと「I LOVE CURRY I LOVE MYANMAR」と書いたステッカーを貼った。

国民的歌手も応援! 

保芦さんのミャンマーへの思いは尋常ではない。

2020年1月に日本に一時帰国していた保芦さんは、テレビで新型コロナウイルスが蔓延した大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」のニュースを目にする。

「こんな得体のしれないウイルスが世界に広まれば、ミャンマーに帰れなくなる。だが(医療が不十分な)ミャンマーに帰れば、このウイルスで本当に死んでしまうかもしれない」

ミャンマーのことは大好きだが、命を懸けてまでのものなのか。こう悩んだ保芦さんだったが、それでもミャンマーに戻ることを決意した。

保芦さんにはその時、ひとつの夢があった。それはミャンマーと日本をつなぐ食の親善大使(フードアンバサダー)になることだ。

「食べ物を通じてミャンマーのすばらしさを伝えたい。ウイルスごときでその夢をあきらめてたまるか」

こう思った保芦さんはすぐに荷物をまとめ、ヤンゴンへと出発した。

ミャンマーに戻った保芦さんはコロナ禍の中、食の親善大使になるため活発に動き出す。ミャンマー人にオンラインで日本のカレーの作り方を教える料理教室を開始。コロナ禍が落ち着くと、ヤンゴンの高級ホテル「チャトリアムホテル」でも料理教室を開いた。

保芦さんはネットワークを作るためにヤンゴンのロータリークラブや観光協会を訪問して、自分をPR。現地の日本語情報誌「ヤンゴンプレス」では「美食日記」という連載を始めた。

行動が実を結んだのか、さまざまな人とつながっていく。オウンマウン・ホテル観光相からは「ミャンマーの食文化を日本に広めてほしい」と激励された。ミャンマーの国民的歌手、ニーニーキンゾーからは「レトルトカレーができたら私が宣伝してあげるから」と約束してもらった。ヤンゴンの高級レストラン「ラングーンティ-ハウス」でもレトルトカレーをおいてもらう手筈となっていた。

「缶詰のレトルトカレーも発売間近。食の親善大使になるのにリーチをかけていた」

だがレトルトカレーが販売されることはなかった。予定日だった2月9日の1週間前、軍事クーデターが起きたからだ。(続く

ヤンゴンのチャトリアムホテルで2021年1月、日本のカレーを作るワークショップを開催した保芦さん。食の親善大使になる準備を進めていた(保芦さん提供)

ヤンゴンのチャトリアムホテルで2021年1月、日本のカレーを作るワークショップを開催した保芦さん。食の親善大使になる準備を進めていた(保芦さん提供)

ミャンマーで作った缶詰のミャンマーレトルトカレー。缶詰の上には、保芦さんのイラストとともに、「I LOVE CURRY I LOVE MYANMAR」と書かれたステッカーを貼った(保芦さん提供)

ミャンマーで作った缶詰のミャンマーレトルトカレー。缶詰の上には、保芦さんのイラストとともに、「I LOVE CURRY I LOVE MYANMAR」と書かれたステッカーを貼った(保芦さん提供)

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