被爆移民・森田隆の名前がブラジルの高校の名前に、平和活動の功績たたえ

サンパウロ在住の日系ブラジル人2世の斎藤綏子さん。被爆した1世の父と「ブラジル被爆者平和協会」を設立した。綏子さんが経営するスーパー「SUKIYAKI」は日系人を含む地元民の生活を支える

広島で被爆した日本人の名前が付いた高校がブラジルのサンパウロにある。「タカシ・モリタ州立技術学校」だ。名前の由来となった日系1世の故・森田隆さんは、サンパウロ在住の2世・斎藤綏子(やすこ)さん(79歳)の父だ。父娘は、被爆者でブラジルへ渡った日系移民への医療支援を日本政府に求める一方、ブラジル社会に原爆の悲惨さを伝え続けてきた。

あのジープに乗りたくない

綏子さんの両親は結婚前、広島でともに被爆した。父は夏になると白血球の値が異常に高くなり、ガタガタ震え出していた。母が布団をかけても震えは止まらなかったという。

放射線が人体に及ぼす影響を調査する米国の機関「原爆傷害調査委員会」(ABCC)は毎年、ジープに父を乗せてABCC広島研究所へ連れて行った。当時7歳だった綏子さんによると、父は「あのジープにはもう乗りたくない」と繰り返していた。モルモットのように検査されていたようだ。

被爆を隠したくなかった

父の発病を運良く免れた一家は、綏子さんが8歳の時、サンパウロに移住した。

被爆について隠したことのなかった両親が一瞬ひるんだのは、綏子さんが結婚適齢期になったころだった。

「私は絶対、自分が被爆2世だと隠したくなかった。だから今の主人にプロポーズされた時、私が被爆者手帳を持っていることをどう思うか聞いてみた」

医師だった、綏子さんの夫の答えはこうだった。

「どんな人でも異常な子どもを授かる可能性があることを知っている。その可能性が高くても一緒に生きていきたい」

ふたりは結婚した。

被爆者平和協会を立ち上げ

ブラジルでは戦後十数年経っても、綏子さんの一家のように被爆を話題にする家庭は少なかった。多くの被爆者は、被爆していない同胞に自分の過去を打ち明けられなかった。自分の内だけに秘め、人知れず悩んでいた。孤独だった。

そうした被爆者と知り合い、意気投合した父は、被爆者を守る協会をブラジルで立ち上げることを思いつく。

そんな父に綏子さんは助言した。

「作るなら、日本政府の公認を受け、被爆者の治療を保障してもらえるようにすべき。ブラジル政府にも同時に公認してもらって、平和を訴えるものにしよう」

「ブラジル被爆者平和協会」は1984年、立ち上がった。目的は、ブラジルに渡った日系移民の被爆者の医療を日本政府に保障してもらうことだった。

綏子さんの両親は翌年、日本を訪問。日系ブラジル人の被爆者の名簿を日本政府に手渡した。その際に「海外に被爆者はいないとの見解を改めること」「被爆した日系ブラジル人の医療を支援し、補償金を支給すること」などを要望した。

日本政府は当初、ブラジルに多くの被爆者がいることを疑っていた。だが調査して被爆者の名簿に記載されていることが正確だとわかると、日本からブラジルに専門医を派遣し、健康相談を行い、医療費の支給を受けられるようにした。日本での治療が必要な場合は渡航費も負担する。

1 2