自身が通うチェンマイ大学社会科学部のキャンパスに立つタイレンさん(21歳)。「毎日が陽気で明るくありますように」と書かれたTシャツは地元ヤンゴンのブランド「Burmese Studio」のもので、ミャンマーから持ってきた軍政の目をかいくぐる地下活動
タイレンさんがタイへの渡航を決意した背景には「市民的不服従運動(CDM)」の行き詰まりがあった。CDMとは、軍政に対してミャンマーの公務員や学生が始めたボイコット運動だ。
軍事クーデターが起きた当時、タイレンさんはミャンマーの最大都市ヤンゴンにあるノースダゴン第2高校の2年生だった。民主主義が突如奪われたことに反対して当時のクラスメイトの半数以上が授業をボイコット。少数民族の武装勢力に入隊し、戦闘で命を落とした仲間もいた。
タイレンさんは占いビジネスを営むかたわら、学生ユニオンに参加し、副代表として活動した。学生ユニオンは1930年代の反植民地闘争から約1世紀にわたり民主化運動を牽引してきた「全ビルマ学生連盟(ABFSU)」の下部組織だ。
「民主主義が脅かされれば、立ち上がるのは当然だ。この国に独裁は要らない」とタイレンさん。1988年8月8日にミャンマーで起きた「8888民主化運動」にヤンゴン大学の学生として参加した祖父を持つタイレンさんにとって、CDMに参加して高校を中退することに躊躇はなかった。アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)を支持する両親も彼の決断を後押しした。
学生ユニオンでのタイレンさんの主な仕事は、CDMに参加した学生のデータ収集とリスト化だった。名前やID番号、所在地などの情報を集め、授業をボイコットした若者たちに代替教育の機会を与えるためだ。データの流出や協力した教師の摘発といったリスクと常に隣り合わせだったが、フェイスブックなどのオンラインツールを駆使することで当局の監視の目をかいくぐった。
内戦が激化すると、タイレンさんと学生ユニオンの方向性に溝が生まれ始めた。予算や人材の不足に直面したユニオン側は、より過激な政治運動へ傾倒し、デモなどの直接行動へと舵を切った。学業を離れた若者への平和的な教育支援を重んじるタイレンさんは、次第にユニオンと距離を置くようになっていく。
ユニオンを離れたあと、タイレンさんは大学進学の準備を始める。CDMに参加したミャンマー人の高校生は高校卒業資格がないため大学に進学できない。そのため彼らの多くは、海外の大学に入るために米国高卒認定資格(GED)の取得を目指す。
しかしGEDの取得は簡単ではない。最大の壁となるのが高額な費用だ。オンライン予備校の受講料6カ月分とGEDの受験料を合わせると約100万チャット(当時のレートで約7万円)が必要。一般的なミャンマー人の数カ月分の収入に相当する大金だが、自前のビジネスがあったタイレンさんは工面できた。またコンテナ船の船員として月3000ドル(約48万円)を稼ぐ父親も、進学費用を快く援助してくれた。

タイレンさんが所属していた学生ユニオンの幹部名簿。タイレンさんの名前は上から二番目にある。当局の摘発を警戒して偽名を使っている














