「苦労したから今がある」ブラジル日系2世、貧農から三菱商事、そして“フルタイムボランティア”

小さいころから働きづめだった日系ブラジル人2世の中村信子さん(81歳)。持ち前のガッツで学歴もキャリアも手に入れた。現役時代から続けてきたボランティア活動をいまはフルタイムで満喫する(サンパウロ・リベルダージで撮影)

一家総出トマト栽培

リオグランデドスル州で1945年、7人きょうだいの3番目(次女)として生まれた信子さん。父が営むトマトの採種農業の仕事を手伝いながら、地元の小学校に通った。収穫したトマトの種を父は、日系人が立ち上げた農協「コチア産業組合」に納める契約農家となった。

トマトの種を育てるには細かい作業が毎日のようにある。子どもも大人と一緒にほとんどの仕事を手伝った。苗床をつくり畝に肥料を入れ、苗を植える。祖母はトマトの支柱にするために竹を準備した。伸びたツルを支柱に結ぶ、わき芽を切る、草とりは子どもの仕事。暑くて雨が降らない11~1月はきょうだいで毎日水やりをした。

トマトを収穫した後は種を絞り出し、近くの川で種を洗った。乾燥させて袋に詰めたら納品する。すべてが手作業。正月休みもなかった。耕運機が来るまでは広大な土地で両親は毎日、鍬(くわ)を振っていた。

信子さんは「竹を運ぶのはとても重かった。だけど一度もだだをこねたことはなかった」と少女時代を振り返る。

信子さんらきょうだいは家から3キロメートルほどの地元の小学校に歩いて通った。日系人は珍しかった。クラスの子どもから「日本に帰れ」となじられることも。そんなとき信子さんは「アフリカ人はアフリカへ帰れ」と言い返した。おしゃべりで活発な少女だったという。

父を失い、またサンパウロへ

リオグランデドスル州で、家族が一丸となったトマトの採種畑での暮らしはおよそ20年間。信子さんは、家と畑の手伝いが忙しかったことで勉強が遅れてしまった。

3年遅れて中学校をようやく卒業した1965年、働き詰めだった父が病に倒れた。「サンパウロに出なさい」。こう言い遺した父の言葉どおりに、一家はトマトの契約畑を畳んでサンパウロに移り住んだ。

信子さんは「住んでいた家や畑、土そのものに深い愛着があったけれど、引っ越しには自分たちの将来への大きな希望があった」と当時を振り返る。

1960年代のサンパウロは、かつての敵国である日本を排斥する雰囲気がまだ残っていた。街角では「なんだ日本人か」と言葉を投げつけられた。

進学するためにサンパウロに先に出ていたきょうだいとも合流し、一家7人で暮らし始める。おじが見つけてくれた家に越したが、何度もその後転居した。そのたびに「必ず良い日が来る」と家族みんなで信じ、いまは幸せへのプロセスにいるんだと言い聞かせた。

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