「苦労したから今がある」ブラジル日系2世、貧農から三菱商事、そして“フルタイムボランティア”

小さいころから働きづめだった日系ブラジル人2世の中村信子さん(81歳)。持ち前のガッツで学歴もキャリアも手に入れた。現役時代から続けてきたボランティア活動をいまはフルタイムで満喫する(サンパウロ・リベルダージで撮影)

遅れた勉強を取り戻せ

家族を助けるために働いてきた信子さんは、中学校までで勉強が止まっていた。妹と弟はすでに大学へ進学していた。焦った信子さんだったが「いまできることを少しずつやっていこう」と、リベルダージにある夜間の高校に通い始める。

昼間はブラジル三菱商事で仕事をしながら、通常3年かかる夜間の高校を1年半で卒業した。「大学へ行く」と心に決めてから1週間で信子さんは、リベルダージにある小さなアパートに妹と2人で引っ越した。その後、半年間の大学受験予備校に通った。「本当にやると決めたらできるんだ、と自信がついた」と声を高揚させる。

「昼は仕事をして夜は予備校だから、このころが一番辛かった」と信子さんの目線は遠くなる。だがこのままがんばるしかない、と腹をくくった。職場の同僚から「あなたには学歴がない」という態度をとられ、それにコンプレックスを抱いていたこともあって、これを乗り越えようとする信子さんだった。

母と妹も「がんばりなさい」と信子さんを励ました。

名門サンパウロ大学に合格

信子さんはブラジル最難関のサンパウロ大学に合格した。東洋文学部で日本語とポルトガル語を専攻した。「合格したときは嬉しかった。でも卒業したときは責任を感じた」と信子さん。70年ごろのブラジルは大卒の女性がまだ少なく、増えてきた時代だったからだ。

コチア産業組合に就職した信子さんは4年後の1971年、ブラジル三菱商事に転職。秘書を10年したのちに食糧部に異動した。大豆、大豆カス、大豆油などの取引を担当するサブマネージャーになる。

食糧部の仕事は、世界の穀物価格のベンチマークとなる米シカゴ商品取引所(CBOT)の相場をにらみながらミスが許されないため、精神的なストレスがかかった。

日本、米国、ブラジルの3チームでのやりとりは大学で専攻しなかった英語を使った。信子さんは「大豆の買い付けの仕事は大変だったけれど、できたときの喜びのほうが大きかった」と目を輝かせる。

ブラジル三菱商事の食糧部マネージャーにまでキャリアを駆け上がった信子さん。2006年に定年退職してからは契約社員に。2014年(69歳のとき)に正式に退職した。

小さいころから働き苦労を重ねてきた信子さんだが、口癖は「良い経験をさせてもらった」だ。苦労を知っているからこそ、また親きょうだい・親せき・日系社会で助け合ってきたからこそ、相手を助けたいという気持ちが強いのかもしれない。

「いまはとっても幸せ」とほほえむ信子さんはこれからもフルタイムのボランティアとして、できることは何でもしていきたいと語る。

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