ブラジル・サンパウロ市郊外のレジストロで暮らす日系2世の清水ルーベンス武さん(83)。「紅茶の都」とかつて呼ばれたレジストロを再び釜煎り茶と文化遺産で再生させようと奮闘するブラジル南部のサンパウロから車で3時間、日系移住地「レジストロ」に農業技師で日系2世の清水ルーベンス武さん(83)がいる。1970年代には「紅茶の都」と呼ばれる一大産地となったレジストロだが、90年代に入ると通貨(レアル)高で輸出が激減し衰退した。武さんは「廃れて森になった茶畑を『アグロフォレストリーのお茶』として売り出し、レジストロの再興させたい」と語る。
釜煎り茶と文化遺産で地域を再生
武さんは「アグロフォレストリーのお茶を、釜炒り茶の製法を使って手作りしたい。ほかの生産者と一緒に協同組合のような仕組みで」と意気込む。
釜煎り茶とは、九州の伝統製法で、蒸さずに釜で煎るため、香ばしい風味が特徴のクラフト茶だ。2年前の2024年にJICA海外協力隊員がこの製法をレジストロに導入した。
夢はそれだけにとどまらない。レジストロ市内にある、国立歴史美術遺産研究所(IPHAN)に文化遺産として登録された建造物と、お茶生産の歴史文化を生かして観光地にするという構想を抱く。
「大きな工場で大量に茶を生産することよりも、先人たちが残してくれた伝統や文化遺産を大切にしたい」と武さん。
ポルトガル語を知らず、食生活も異なり、不便な生活のなか、マラリアなどにも苦しんだ、かつての移住者たち。こうした困難を乗り越え、大きな財産を残した先人への感謝の念が絶えない武さんだ。
父子家庭で海を渡る
武さんの祖父は1925年、家族で北海道愛別町を後にして神戸港から移民船「ぶらじる丸」に乗り込んだ。妻を亡くしていた祖父の家族は幼い3人(6歳、4歳、3歳)の子どもと曾祖母。
5人は、ぶらじる丸が着いたサントス港から蒸気機関車と蒸気船を乗り継ぎ、リベイラ川を上がってレジストロ植民地(移住地を「植民地」と呼ぶ)にやってきた。武さんの父は長男で当時6歳だった。
武さんは、祖父から入植したころの話を何度も聞いた。レジストロは日本の国策で「(出稼ぎではなく)ブラジルへの永住」を目的にした初期の植民地だった。移住者らは原生林を倒し、ヤシ科のジュサラヤシで小屋を建てた。幹は柱に、葉は割いて屋根と壁にした。
レジストロははっきりしとした四季がなく、年間を通して雨が多い。手つかずの土地は肥沃で、植えたものは何でも育った。コメは採算が合わなかったので、サトウキビ、キャッサバ、さまざまな野菜、大豆、養蚕、養鶏と手を広げていった。
「買うものといえば塩くらい。祖母が大豆から味噌としょうゆを作っていた」と武さんは振り返る。
失敗からのV字回復
武さんの祖父が原生林を切り開き1930年に始めたお茶栽培は、そう簡単ではなかった。中国種の茶木は暑さに弱く、紅茶にすると味が合わなかった。
転機が訪れたのはその後だった。レジストロでお茶の栽培を広めていた故・岡本寅蔵さんが1935年、日本からブラジルに戻る際に寄港したセイロン(現在のスリランカ)でアッサム種の種子を手に入れた。
アッサム種は暑いブラジルの気候に適していて、美味しい紅茶が採れた。この成功は半世紀以上にわたって続いた。
武さんは「岡本さんがレジストロを再生させた。アッサム紅茶がなかったら、レジストロの日本人移住地は消えていた」と笑う。
お茶はレジストロの一大産業へと成長を遂げる。第2次世界大戦で中断したものの、1950年ごろから、紅茶の大量生産が始まった。40以上の製茶工場はしだいに統合され、大規模工場に集約された。最盛期の80年代は年間1万トンあまりに達したという。
「ブラジル政府が海外からの紅茶の輸入を2度禁止したのも功を奏した」と武さん。生産した紅茶の9割が欧米向けだった。レジストロは当時、「紅茶の都」と呼ばれたという。
ところが輸出に依存していた紅茶産業に異変が起きる。90年代に入ると急激なレアル高が起き、ブラジル製品は国際市場で競争力を失っていく。レジストロのお茶生産も一気に衰退。残ったのは1社だけだった。

ジュサラヤシを混ぜて植えたアグロフォレストリーのお茶畑。ジュサラヤシの実はジュースにし、種は植え付けに使う(清水ルーベンス武さん撮影)














