ブラジルの移住地「レジストロ」の日系移民の半数は逃げ出した、1世が追う草創期の苦難

サンパウロ州レジストロで暮らす日系ブラジル人1世の福澤一興さん(85)。レジストロ日本ブラジル文化協会で日系人に日本語を教える

ブラジルのサンパウロ市から南西におよそ200キロメートル離れた日系移住地「レジストロ」の壮絶な開拓史を1冊の本に残そうとする1世がいる。13歳で埼玉県の秩父からレジストロに移住した福澤一興さん(85歳)だ。「初期(1910年代)の移民の半数近くはこの土地を捨てて逃げ出した。また乳幼児の4人に1人が死んでいった」と語る。

コメ作りは行き詰まった

福澤さんがレジストロの日系移民史を残そうと考えたのは、1910年代の資料を見て驚いたからだ。

「日本人がレジストロにやって来たのは1916年。移民の数はその後増え続け、530家族ぐらいになった。ただ5年後の1921年にはその半数近くが、買った土地を捨て、逃げ出していった」

レジストロはサンパウロ州南部のリベイラ渓谷にある、現在は落ち着いた中規模の街だ。

日本からやって来た移民らは原生林だったこの土地を購入。ヤシやつる科の植物を焼き、開墾し、コメの苗を植えた。1年目に収穫できたのは80俵(4800キログラム)。ところが2年、3年と経つうちに収穫量はどんどん減り、コメ作りは行き詰まった。

移民らの苦悩はコメ作りだけではなかった。新生児の死が多かったことだ。

福澤さんによると、当時のレジストロでは夫の平均年齢は28歳、妻は26歳だった。若さもあって、入植後1年目は日本国内の出生率の1.5倍と、たくさんの子どもが生まれていた。ところが2年を過ぎてから死産が増え、2歳未満児の死亡率が上がっていく。その比率は1910〜1920年には25%に達した。

成人もまた、マラリアや十二指腸病などの寄生虫症に悩まされた。

日本の農家には農期と農閑期があり、体を休める時期があるが、レジストロの気候は年中温暖。「農閑期がないから休みなく働き続けることになる。入植した時から木を伐採して家を造ったり、野を焼いて開墾したりと苦労続きの毎日だった。日本にいる時とは食べ物も違っただろう。移民の苦悩は限界に達していたのでは」と福澤さんは分析する。

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