小さいころから働きづめだった日系ブラジル人2世の中村信子さん(81歳)。持ち前のガッツで学歴もキャリアも手に入れた。現役時代から続けてきたボランティア活動をいまはフルタイムで満喫する(サンパウロ・リベルダージで撮影)「ここは将来性がないから、サンパウロに行きなさい」。これは、ブラジルに渡った日系2世の中村信子さん(81歳)の父が死ぬ間際に残した言葉だ。“ここ”とは、中村さん一家が開拓しトマト農園を営んでいたブラジル南部のリオグランデドスル州のこと。3世代11人の大家族は食べるだけで精一杯の日々。とはいえサンパウロに出た当時10代後半の信子さんは人種差別と学歴コンプレックスと戦うことになる。
愛犬・おしゃべり・書道
信子さんはいま、サンパウロ市にある自宅で2人の妹と愛犬との穏やかな暮らしを楽しむ。
日本人街「リベルダージ」からほど近い「ブラジル日本語センター(CBLJ)」で月3回開く「日本語を話そうかい」でボランティアするのが信子さんの日々の活力だ。日系企業の駐在員の妻らのボランティアグループと一緒に、最近楽しかったこと、七夕、ひな祭りなどをテーマに毎回盛り上がる。
ブラジル日本語センターで信子さんはまた、ボランティアグループの世話役として、日系人と非日系人に書道も教える。「退職したら奉仕活動をフルタイムでしようと、若いころから決めていた」と信子さんは笑う。
日本縦断1.3倍の大移動
穏やかな毎日を過ごす信子さんだが、ブラジルに渡った祖父母と両親の暮らしは壮絶だったという。信子さんの母は愛媛県今治市から、父の家族は北海道旭川市から、1930年代にそれぞれ別の移民船でブラジルのアマゾン地域に渡った。30年代の日本は昭和恐慌と呼ばれる未曾有の不況のため、日本は貧困のまっただ中にあった。
日本政府は国をあげて、口減らしの目的で「ブラジルに行けば豊かになれる」と移民政策を打ち出した。20年代から35年ごろをピークに、第2次世界大戦が勃発する41年までに19万人が移住。多くは南部のサンパウロ州のコーヒー農園などに労働者として入植した。奴隷を解放したブラジルにとってみれば、農園での働き手を補う必要が早急にあった。
信子さんの母方の祖父母は、アマゾン川の下流域に位置する北部のパラ州のトメアスに拓いた「アカラ植民地」に入植した。原始林を開拓するさなか、黄熱病と赤痢で子ども2人(母の弟妹)を失った。
「このままでは一家が全滅する」。母方と父方の一家は、風土病がまん延するパラ州から南部のサンパウロに逃れ、さらにブラジル南端のリオグランデドスル州に移った。北から南へ3900キロメートル、日本縦断の1.3倍の距離の大移動だった。














