福島を経験した日本人は「同胞の苦しみを見る辛さ」がわかるはず、日本在住のシリア難民学生が訴える

0619篠田さん、写真内戦前後を比較した写真を見せながら、自らの経験を話すヤセルさん。「同じ場所だとは思えない。人が住めると思いますか」と語りかけた

6月20日は「世界難民の日」。難民や難民を生み出す問題などをより多くの人に知ってもらうイベントが日本をはじめ、世界で開かれる。5月19日に都内の早稲田大学であった講演会「ニュースでしか知らないシリア〜シリア難民からのメッセージ〜」では、明治大学で学ぶシリア難民のヤセル・ジャマール・アル・ディーンさん(25)が登壇。「シリアで起きていることにもっと関心をもって欲しい」と訴えた。

「日本人なら、同胞が苦しんでいる姿を見ることの辛さがわかるだろう」。ヤセルさんは講演で、東日本大震災の被災地を自ら歩いた経験から、参加者にこう語りかけた。東日本大震災の起きた2011年3月は、ヤセルさんの母国シリアの内戦が本格化した時期にあたる。福島を今春訪ねたヤセルさんの目には、その荒廃した姿や人々がいない街の様子などが、内戦下のシリアの街と重なって映ったという。「この風景は僕にとってすごくショッキングだった。福島の状況は、僕が去った故郷のそれとほとんど同じだった」

ヤセルさんは、シリア中西部にある第3の都市、ホムスに住んでいた。2013年には内戦の激化で、自宅が政府軍側の攻撃にさらされ、半壊状態になった。1階にいたヤセルさんと母、妹に大きなけがはなかったが、家はもう住める状態でなくなった。当時、ダマスカス大学英文学科の3年生だったが、「卒業したかったけれど、生きていることが一番大切」と、故郷を離れる決断をした。父はカタールに出稼ぎに出ていたため、家族3人でエジプトを経て、日本人の妻をもつおじのつてで、日本にやってくることができた。

日本に到着後、難民申請をしたものの、暮らしは楽ではなかった。自分だけではなく、家族を養わなければならない。日本語が話せないシリア人ができる仕事は、危険な業務しかなかった。解体作業現場での仕事が見つかったが、現場で釘が足の裏に刺さったことで破傷風にかかり入院。3カ月でその職を離れざるをえなかった。その後、ようやくカフェのアルバイトを見つけ、日本語を「使いながら学んだ」。また知人の紹介で、幼稚園で英語を教え始めた。

その後、父も来日でき、一家で難民認定を受けることができた。現在は日本政府の奨学金を得て、明治大学国際日本学部で日本文化を世界に発信する方法を学ぶ。「日本の難民政策は、難民の目から見ると、まだ変える必要があると思う。それでも今は、僕ら家族が生きる場所を与えてくれた日本に感謝している」と話す。

一方で、日本国内で、シリアで起きていることについての関心があまり高くないとしばしば感じるという。日本人の前で自己紹介をする機会が多いヤセルさん。シリア出身だと話しても、「シリア? どこ?」といった反応が返ってくることも多い。

また、解体作業の仕事をしていた時、日本語を話すことがほぼできなかったヤセルさんを現場の同僚たちはひどく差別した。現場の指示がわからないヤセルさんに対するマナーは悪く、危害こそ加えられなかったが、長くこの職場で働くことは厳しかった。シリアで起こっていることを知らないとはいえ、扱いはひどかったと振り返る。

こうした思いから、ヤセルさんは、支援団体「White Heart for Syria」を立ち上げ、支援物資などを現地に届ける一方、日本人に向けてシリア問題についての情報発信などを続けている。「難民を多く受け入れてほしいといったことではなく、まず多くの人に現状を知ってもらいたい」と話す。